葛卷昌興の詩文に秀でしことは、已にこれを言へり。昌興亦和歌に長じ、元祿六年その罪を獲て寺西宗寛の家に錮せらるゝや、花に對して懷を述べ、之を莫逆の友竹田忠張に贈る。 住みはてん身とも思はで世の中にむかしは花を植てけるかな 又その謫所に遷さるゝの遲きを嘆じて志を述ぶ。 呉竹のひとよとばかりおもひしにいくあかつきの夢結ぶらん 能登蟄居中、 春すぎてふかき緑にまじりなばあたら櫻の名をやけがさむ 時人一讀して酸鼻せざるなし。その家集を野草玉露といへり。寶永二年三月四日歿す、年五十。 能順、寛永六年京師北野神社上乘坊に生まる。明暦三年前田利常の菅廟を小松郊外梯村に營むや、能順聘せられてその別當となり、梅林院に住す。能順連歌及び和歌を巧にし、又能く物語の書を讀む。當時加賀藩に連歌の盛なる、能順與りて大に力あり。爾後屢京師に上り、元祿十三年靈元上皇に召され、御硯下賜の恩寵に接す。 元祿十三年十二月二十五日從仙洞御硯拜領して同二十八日立春に奉りける 行年七十三法橋能順 年のうちの春日かしこき光かな 歳旦 今朝しるや筆の海より春の水 後又御物の文臺・硯箱を賜ふ。曾て應司卿の勅勘を得るや、能順『埋れてなほ木高しや雪の松』の句を呈し、連歌百韻を賡ぐ。その卷の謄せしもの今尚存せり。寛永三年十一月寂す、享年七十九。その遺詠は、慶阿法師之を上梓して觀明軒發句集と題し、之を萬里小路卿に呈す。卿乃ち乙夜の覽に供せしに、勅して聯玉集と改題し賜へり。 能順自賛畫像能美郡牧村梯神社藏 能順自賛畫像