水島右近、初め廷臣庭田重條に仕へ、皇典朝儀に精熟す。享保四年前田綱紀の祿を受け、搢紳家に出入して、侯の書籍蒐集の業を輔く。 竹田權兵衞、一に秦廣貞といふ。京都の人。竹田氏は祖先以來代々權兵衞といひ、加賀藩に仕へて金春流の能樂師たり。廣貞學を好みて本邦歌舞の沿革を究め、正徳四年歌舞名物異同抄三卷を編し、又享保元年徳華問答抄一卷を著す。 室直清、鳩巣と號す。傳は漢學の條に載せたり。直清間々和歌を詠ぜしことあり。 明明徳 皆人のもとのこゝろはます鏡みがゞばなどかくもりはつべき 新民 ふりにけるならの都のならはしもあらたまり行君がまことに 止至善 よしと見る其一節を難波江のあしかるかたにうつさずもがな 杉本義隣、通稱三之丞、前田綱紀に仕へて定番歩士たり。元祿中赤穗義士復讐の擧あるや、義隣の江戸より齎したる報告は、鳩巣が義人録編輯の材料となる。寶永六年義隣藩命を奉じ、隱士渡邊幸庵に就きて其の見聞せし所を徴し、之を録して幸庵物語と題す。 小瀬良正の詩に長ずることは、前に之を言へり。良正又國文を能くし、三絃の歌詞に及ぶ。享保三年八月十日歿す、年五十。 賢人すがゝき 岐山に鳳凰囀りて、麒麟を追出す狩の道、直ぐなる聖代、堯舜禹湯に文王や、丹朱の不行迹、天竺浪人孔子樣、惠王聊か受つけず、淵明菊好き、茂叔は落葉に酒受て、樂天押へます、玄宗鼻乞ふ楊貴妃、殆んど繋れて、馬嵬の草葉に、墓なや思ひに置そふ露涙、子思子の工夫は、孔門傳授の眞法か。 七賢打込む竹藪や、蓮を愛する周茂叔、三徑荒れても、松菊色よく咲初めて、淵明賞美なり。さりとは草木黄ばみ落、月には漕出す樓船や、羽觴を飛ばする樂天、唐(カラ)での酒喰ひ、詩作も酒臭し。屈原汨羅に、濁世のほこりを打拂ひ、小人眞顏に、巧言令色飾れども、仁には違ふと、賢人座敷へうけつけず。