土屋義休、字は直心、石川郡御供田村の長なり。頗る記性に富み、加賀藩の事蹟を暗んず。正徳四年加越能水路大經を著し、三州の水脈源流を説くこと頗る明晣なり。この書一に加越能山川記又は水源記と名づく。又耕稼春秋の著あり。室鳩巣これに序して、その人を推稱すること至れり。金城隆盛私記一卷あり、寶永二年五月の自序を附す。義休享保四年四月歿す、享年七十八。 由比勝生、通稱三之丞、暫留と號す。元祿四年藩侯世子の傅となる。好みて書を讀み、孜々として止めず。群籍を渉獵して、君侯の歴世臣僚の系譜より法令・制度に至るまで、得るに隨ひて筆録し、題して多毛登草といふ。又懷惠夜話一卷あり、前田利常以下當代に至る事蹟を收め、江金往還一卷は江戸金澤間の旅行記なり。享保四年歿、年八十四。 馬淵高定、寛文十一年奧小將となり、寶永二年宮腰奉行となる。弓馬の故實に精通し、古書中武人必讀の事蹟、並びに藩の史實を探録して、武家混目集二百六十卷を撰す。其の他能越城主記一卷・笈搜記三卷・畿内遊覽・馬淵私傳等の著あり。享保七年五月二十六日歿す、年六十六。高定の子に仲暢あり。父の著武家混目集中より、天文六年以下貞享元年に至る加賀藩に關する事のみを拔萃して、混目集五卷となす。一に加陽御年譜ともいふ。