野村重威、書を讀み、詩を作り、室鳩巣・五十川剛伯等と交る。又連歌を好み、能順と互に唱和す。享保九年八月十六日歿す、享年五十八。 山本基庸は鳩巣に從遊せりといへども、その詩は孟浪杜撰見るに足らず。但し和歌にありては之を能くして、其の名大に顯れたり。嘗て惜名戀と題して、 我が戀は淺澤小野の忘れ水わすれはつともうき名もらすな の一首を詠ず。當時堂上間にこれを激賞して、淺澤の源右衞門と呼ぶに至れり。源右衞門は基庸の通稱なり。前田綱紀曾て城南野田山の先塋を展し、我も亦死後こゝに居を占めんと言ひしかば、基庸一首を即吟して之を上れり。 君こゝに千年の後のすみどころ二葉の松に雲かゝるまで 綱紀感賞して措かず。その江戸邸の書院を名づけて、松雲軒又は松雲書院といへるは、此の歌の意を取り、薨後法諡を松雲院といふも亦これに因る。基庸享保十年七月十五日歿す、年六十九。 多賀直秀、寛文三年前田綱紀に仕ふ。直秀延寶二年同僚關屋雲八郎と城中に鬪ひて創を被り、因りて能登の鵜浦の謫所に住す。後直秀詩歌各一首を作りて弟直方に示せり。その歌に、 五月雨の軒の雫はそれならで世をわび人の袖ぞぬれける 數年を經て召還の命を得たりといへども、辭して歸らず。享保十年歿す、年七十九。 大野木克明、葛卷昌興の兄なり。前田綱紀に仕へて奧小將となり、寶永七年氏を大野木に改む。綱紀の左右に侍すること六十載、和文を能くし、殊に和歌に長ず。著す所、筆談・閑窻記・警語榜文・和漢諸氏訓誠等あり。享保十一年七十二歳を以て歿す。