森田盛昌、藩臣茨木氏に仕へ、學を好み史に通ず。元祿十年その隨筆寶の草子一卷を著し、享保二年能登紀行を書し、同七年に自他群書五卷・漸得雜記二十六卷を編せり。漸得雜記は藩の史實に關する事を摘録せるものにして、學者に裨益する所多し。享保十七年十一月廿八日歿す、享年六十六。 前記の外前田綱紀の時代に屬する學者に、木村藤兵衞ありて寛文十三年岩淵喧嘩記一卷を著し、河内山昌實ありて延寶三年前田創業記五卷を著し、村井親長は延寶三年高徳公御武功書一卷を著し、吉田軌中は前田四代自記四卷を著し、源久矩は寶永三年菅君榮名記十五卷を撰し、板垣信精は梅松語園三卷を作り、高畠定延は正徳年間前田氏の歴史を修して菅君雜録四十八册を輯む。是等は皆弓馬の傍ら指を文學に染め、書を貽して後人を益せるものなるも、今その詳傳を得ること能はず。 服部元好、後に關氏に改む。金澤卯辰八幡町に住せる醫師にして、狂歌を善くし、又尺八の吹奏に巧なり。元好は俳人北枝等と風交を結びしこと、その著軒端集に見ゆるが故に、彼は元祿・寶永の頃をその盛時とせしなるべし。或は曰く、藩士大音帶刀毎年元好に米一石を贈りしが、偶家中勤儉の令あるに際し、その半を減じて與へたりき。元好乃ち之を謝し、『帶刀が力の程を見せんとて石を二つに割りてたまはる』と詠ぜしに、帶刀は苦笑して更に米五斗を贈れりと。この譯普く坊間に傳ふる所なり。然れどもこは狂歌師曉月坊が京極黄門より米一石を借らんとて、『曉月が師走の果の空印地とし打こさん石一つたべ』と申し遣りしに、黄門米五斗を使に與へて、『定家が力の程を見せんとて石を二つに割りてこそやれ』と返歌せりとの物語を誤りたるものなるべし。元好の傳者の爲に特に記する所以なり。 俳譜師北枝の許によみて遣しける 發句師を北枝というて津のなきは名句を吐いて喉のかれたか 或人貴老は歌を詠み給へば吉田兼好の再來ならんか、名もよく似たりといふに こゝうだにすめば吉田の兼好よにごるが故に我は元好 僻世 呼びに來ていやといはれず冬の夜に末は知らねど療治しに行