第六世前田吉徳の世より、第十二世齊廣の世に至る百年間は、世人專ら漢文學にのみ指を染め、和歌國文は男子の學ぶべきものにあらずとせり。故に國學者の見るべきもの甚だ少く、僅かに田中朋如の能く國典に通じ、音韻の學に精通するありしのみ。その他の歌人雜學者に至りては、之を前代の士に比すれば皆數等を輸するを見る。 前田重煕、政暇國雅を嗜む。小松の菅神廟に納るゝ所の松梅百詠、自書の存するもの以てその才を見るべし。 梅始開 天が下あまねきはるのいろ香をも宿にまづしる梅の初はな 陽春布徳 道しあるむかしにかへれ國つかぜやはらぐはるになびく民草 前田重靖、有栖川一品親王を師として國風に長じ、著す所の拾藻和歌集は今尚存す。 江春月 にごりなく猶すみの江のむかしより霞むならひや春の夜の月 梅風 獨ねの夜半のまくらにほの〲とさそふはしるし梅の下かぜ 紀行 癸酉のとし秋八月、公の御いとまを申たまはりて、わが國の旅のおもむく事になん侍りける。同十六日東都の館をいづ。しるべあるきはみとひもてきて、うち送るも、さすが立出がたき心ちぞする。今朝しも打しぐれたる氣色にて、雨をやみなうふり出ぬ。庭の梢をかへり見れば、まだ頃淺き色なれば、又來ん秋のちしほなど、ひとりごちつゝ、駒うちはやめて、板橋の方にさしかゝれば、しづが屋の煙いぶせきさま、いと哀にみすてがたし。戸田川を越ゆるとき雁を聞いて。 出でゝこし跡にもつげよ天つかりとだのわたりを今越ゆるとは (下略)