前田直躬、加賀藩の典故に通じ、最も和歌を好み、大納言冷泉爲村の門に入り、屢秀逸として褒詞を與へらる。時に河北郡津幡に冷泉爲廣の墳と稱するものあり。荊棘に埋ること二百五十年、人之を知るものなし。直躬乃ち明和三年を以て爲村と謀り、碑を立てゝ之を再興せり。安永三年四月三日歿、年六十一。 夏草露 ところせくしげりあひてぞ中〱にすゞしく見ゆる夏草の露 菅野恭忠、田中朋如に就きて音韻の説を學ぶこと三十九年、之を謠曲發聲の理に應用して謠要律一卷を著す。時に安永八年にして恭忠六十余歳なり。 有澤貞幹、字は伯因、通稱才右衞門、藍水堂と號し、傍ら國歌を嗜む。その著甲辰紀行は江戸より金澤に至る紀行にして、甲辰は天明四年なるべし。この文往々誤りて木下貞幹の作とせらる。然れども文中寶永年間富士山噴火のことを記するを以て、元祿十一年に歿したる順庵と交渉せざること明らかなり。寛政二年五月二十六日歿。 甲辰紀行 甲辰のとし正月末つかた、古郷へたち出る仰ごとありて、後の睦月三日の夜、明日は出んとともよほす宵に、召出されかうふれることありて、夜更るまで宿直の人と、なにはのことの葉も花さくばかりにかたりなぐさみたり。思ふどちの馬のはなむけにとて、歌よみて給ふなどありていと興あり。(中略) 古郷へたち出る馬のはなむけとて、とり〲歌よみ給ひけるに とりあへず貞幹 もろ人のなさけや春に匂ふらむかへさの袖にこゝろひかるゝ