新井祐登、號は白蛾、京都の人。その傳は漢學の條に擧げたり。祐登又和歌を詠じ、國文を作ることあれども、素よりその本領にはあらず。寛政四年五月歿、齡七十九。 京都火災の記 天明八つのとし、むつき下の九日、曉かけて火あり。明ればつごもり、四面こと〲く熖となり、夜半に及びて、大宮作りまでも殘りなく、都はすべて灰塵となりぬ。また明れば、きさらぎ朔日、晝時も過なむころより、火勢やう〱とゞまりぬれども、誰かはひとり住むべきやどりもなし。逃迷ひて死するもの數知れずとなむ。ながらへたる人は、住どころもとむとて、わづかのゆかりをしたひ、四方の國々へ、ちり〲につどひ行もの、幾ばくちたり、あはれてふも更なり。やつがれは大津のさとに、親しきゆかりの家有りて、しばし假居し侍り。四日の月をながめ、みやこの空もなつかしく侍りてよめる。 おもひきや此衣更着の初月を大津のさとにあふぎみむとは 又其時のやうをおもひて。 花ならでみやこの春はもみぢ散る涙のしぐれたえぬもろ人 津田政隣、通稱權平・左近右衞門、初諱正隣。前田重教・治脩・齊廣の三世に仕へ、讀書を好み文才に富む。政隣諸家の記録を渉獵し、天文七年以降安永七年に至る二百四十年間の事蹟を録して政隣記十一卷を著し、又安永八年より文化十一年に至る三十六年間自ら見聞する所を輯めて耳目甄録二十卷を著す。耳目甄録も亦通稱政隣記を以て稱せらる。並びに加賀藩の事蹟を徴するに頗る有益の書なり。文化十一年歿す、年五十九。 佐久間寛臺、通稱五郎八、東岳と號す。世々前田氏に仕ふ。寛臺讀書に耽り、和歌を嗜み、享保元年書物奉行兼書寫奉行となる。常に謠曲の文義解し難きものあるを憂へて、その註釋を試み、謠言粗志内外四十二册を編す。その他猫鼠軍談等の著あり。文政元年歿す、年五十八。 君臣有義 かしこしな君と臣とのあひ竹にへだてぬ節も見えてわりなき 父子有親 惠みつゝはごくむ露のかぞいろに背かでむかふなでしこの花