富田景周の傳は之を漢學の條に掲ぐ。その學漢文を宗とすといへども、なでしこ二卷の如きは國文を以て書かれ、又越中萬葉考及び楢葉越枝折の如き萬葉集に關する著述を有す。文政十一年二月二十日歿、年八十三。景周の母は奧村忠順の女にして名は愛、青楓と號し、七歳にして既に自ら和歌を詠ず。長ずるに及び冷泉爲村の門に入り、屢褒詞を受く。家集青楓秋露の外著す外の書數種あり。今その歿年を詳かにせず。 堀越左源次、阿北齋雀翁と號し、世々藩の左官職を勤む。左源次怜悧にして奇智に富み、最も狂歌を好む。奇句名吟口を衝いて出で、毫も推敲するを要せず。大島桃年曾て下野國分寺の古瓦を得、左源次に囑して硯を作らしむ。左源次製し終り、一首を添へて之を桃年に贈る。 堀越のたまの硯はあめがした二番とさげんじまんなされよ 桃年の友人之を羨み、左源次をして別に同一物を作らしめんとす。左源次直に之を辭し、 頼まれて偖もうき目に大島のつれさへほんにいやのなにがし の一首を示せりといふ。文化七年八月十六日歿す、年六十四。 藩侯前田齊泰の世は、我が邦に於いて國學の大に進みたる時に會せしを以て、この地も亦その影響を受け、歌人多く輩出し、古典を究むる學者の數を増せり。