荒井貫名、通稱和平。和歌を以て顯るといへどもその師事する所を知らず。文化・文政の際古調を以て一旗幟を立つ。書も亦奇古にして人目を驚かすものあり。 富士山 さながらは寫しやすくていとよくも寫すに難き山は不二のね 寄竹戀 さす竹の君よ千尋のかげはあれど千代に葉かへぬ緑ともがな 奧村榮實、尚寛の第四子にして、止齋と號し又雅名を豐武彦といへり。榮實藩の老職に居り、古今の書讀まざるなく、特に國學に通じ、和漢音韻より制度車服の事に至るまで殆ど講究せずといふことなし。嘗て古言衣延辨を著し、又平田篤胤の靈の眞柱により、國典異證を編し、文政の末には富士谷御杖を延見して歌道を聞き、且つ屢田中躬之に和歌の點刪を請へり。止齋漫録二册等の著あり。天保十四年八月九日逝く、年五十二。 醫王山 外山にはいりぬと見えて夕附日ひとり醫王の嶺にこそ照れ 人の椿を贈りけるを みがかれてかく咲きぬらん玉椿やちよの春をしむる垣根に 詠大乘寺山眺望八景 出る日の、光かゞやく、この加賀の、國に名高き、山川は、おほき中にも、茂りそふ、椙の林の、岩ねふみ、草おしわけて、岨づたひ、のぼれば遠く、打渡す、此面彼面の、春秋を、あつめてこゝに、みついつゝ、七つにあまる、目のまへの、けしきはのべむ言の葉も、なみにうかべる、黒津ぶね(黒津舟夜雨)、神の宮居は、幾世にか、ふりまさるらん、春雨の、惠沿き、瑞籬の、内外ににほふ梅が枝も、げにあやなてふ、夜をかさね、日をし經ぬれは、時しもや、花ちる頃に、わかるなる、雁の涙の、玉くしげ、ふたご(二子塚落雁)の塚に、あざりする、ふかき名殘を、何にかも、くらべ(倉部夕照)の磯の、磯菜づむ、あまのふせやに、夕づく日、くまなくてらす、影もやゝ、傾きゆけば、追手ふく、潮路すゞしみ、こぎかへる、船底きよく、たつ浪の、白木綿かくる、宮のこし(宮腰歸帆)、こしのうみべの、八百日ゆく、濱の眞砂を、ありかずに、かぞへてつまむ、としの緒の、長きまもりと、いつしかも、造りそめけむ、この寺(大乘寺晩鐘)の、法のひかりも、鐘の音も、遠く傳へて、諸人の、袖ひきつらね、うちあふぐ、高尾(高尾秋月)の山の、月影に、秋もふけぬと、みそらゆく、雲のまよひを、神無月、ふりみふらすみ、よひ〱に、拂ふ嵐の、音さゆる、ときはの松の、ふかき色も、あらはれゆけば、馴れてすむ、鶴來の市(鶴來晴嵐)の、市人の、いとなみしげき、ゆきかひに、とるすが笠の、かさなれる、八重の外山の、しら雲を、麓になして、萬世に、うごく時なく、神さびて、たてる白根(白山暮雪)の、雪の夕ばえ。