田中躬之、通稱兵庫、菊園と號す。石川郡本吉村の儒醫の家に生まる。少壯京師に至り、皇學を加茂季鷹に受け、醫術を新宮涼庭に學ぶ。天保五年家に歸り、六年居を金澤に移して町儒醫となり、國典和歌を教授す。當時藩の歌人多く新調を喜び、爭ひて輕佻浮薄の體に陷り、たゞ荒井貫名・五十嵐篤好等數人の古調を崇ぶものありといへども、詞格何れも澁晦にして時流を左右するに足らざりき。然るに躬之の歌風を見るに及び、人々相爭ひて之に赴き、青木秀枝・淺野屋佐平・高木有制・大野木克敏・石黒千尋・山下清臣・狩谷鷹友・高林景寛・高畠米積及び高橋富兄等、その門に入るもの甚だ多し。加賀藩歌道の盛なること實に躬之に始る。嘉永五年前田齊泰之を召して、明倫堂皇學講師となす。大夫奧村榮實亦深く躬之を信じ、屢延見して道を聽けり。安政四年齊泰類聚國史の缺逸を憂へ、儒臣に命じて之を補修せしめ、躬之をして編纂の事を督せしむ。業未だ緒に就くに至らず、同年七月十九日を以て歿せり、年六十二。著す所菊園遺芳・園の菊あり。園の菊は、其の子猛之の作をも合輯せり。 花似雲 花とのみまがひ馴にしおこたりに花をも雲と見てしくやしさ 夜卯花 ありあけの月まちてこそ卯の花をうの花ぞとは誰もしりけれ