湯淺祗庸、通稱彌左衞門、字は子恒、弦齋と號す。加賀藩の書物奉行なり。祗庸舊例を詳悉し、文化十一年北藩秘鑑二十卷を著す。その他本藩歴譜及び公族譜二十三卷・藩國官職通考二卷等あり。萬延元年六月三日歿、年七十六。 五十嵐篤好、一名厚義、幼字は小五郎、長じて小豐次といひ、後に父の名を襲ぎて孫作と改む。臥牛齋・香瀬・鳩夢・雉岡・鹿鳴花園等の號あり。寛政五年十二月越中礪波郡内島村に生まれ、文化八年十村に任ぜられ、文政二年事によりて能登島に流さる。その謫居中、伊夜比咩神社の神職船木連老を訪ひ歌書を繙きしが、『我身いま三十路もちかの鹽がまに煙ばかりもたつことのなき。』といへる契冲の詠を見て大に感奮し、赦免の後歌を本居大平に學び、又贄を富士谷御杖に執りて國學を究む。文政十二年近江の望月幸智また來りて言靈の奧義を傳へき。安政五年豐後の千住弘太夫越中に入るや、その農事に精しきを以て、篤好は留めて彼が説を聞きしが、事藩廳の知る所となり、流浪人を宿泊せしめたる故を以て閉門を命ぜらるゝこと一年に及べり。篤好晩年多く金澤に住し、文久元年正月二十四日歿す、享年六十九。著す所雉岡隨筆・同續編・歌學初訓・歌學次訓・歌學三訓・富士谷御杖歌文集・湯津爪櫛・伊勢物語披雲・天朝墨談・言靈族曉・名言結本末・散書百首式紙形・養老和歌集・無目籠・神典秘解等あり。その他農政等に關するもの亦多し。昭和三年十一月十日特に從五位を贈らる。 對月言志 後の世にしぬばれぬべき俤を月にとゞめんことのはもがな 雉岡隨筆のはしがき 我きゞしの岡をあざるうなゐら、なにあざるらむ。雲雀の床なあらしそ、子を思ふきゞすなおどろかしそ、といへば、ちゝこ・はゝこ・つく〲し・むらさきすみれなど、つまどりもたり。我此頃のつれ〲なるすさびに、年ごろふでのまに〱、かきすてしほぐどもの中をあざれば、ちゝこ草ちゝのことの葉、はゝこ草母のうたなどあるを、つく〲しつく〲見れば、むかしこひしきに、紫のゆゑある人々の、いへりしことなど、をかしと思ひて、書きつけおきたるが、きのふけふのやうにおぼゆれど、かぞふれば、いと遠くなりぬるもあり。かゝる言の葉どもの、ゆかしきにつれ、わがなま〱なるさへ、捨がたくなりて、二つ三つ、五つ六つとつみとるほどは、袺るばかりにはあらねど、たとふ紙にはあへずそなりにける。いでうなゐら、翁がすざびも、おなじすざびぞかし、いましらが友になしてよ。むかししのぶのくさもつみてむ。ものわすれ草もつみてましと、いふほどに、ゆふきゞし、耳もとに鳴けば、いざあすもとて、あかれにけり。 安政五年二月