三輪照寛、通稱勘兵衞、前田兵部の家老にして、心を皇學に潜め、田中躬之の門に入りて歌道を學び、傍ら法制に通ず。安政二年明倫堂國學代講となり、文久元年皇學主講加人に進む。著す所、夏殷周三代田制考・令集解訓點あり。明治四年十月歿す、年六十三。 扇 あふぎにはしのび〱に通ふらんまだ世にしらぬ秋の初風 行路紅葉 紅葉のちりのまがひにやすらへば我さへしらず錦きにけり 石黒千尋、初の名は克己、通稱萬五郎・左門・嘉左衞門又は九十九。世々加賀藩に仕ふ。天保年中鈴木重胤の金澤に至るや、千尋深く之と交り國典の説を聽き、橘守部の來るや亦就きて和歌を學び、田中躬之にも師事して、家を竹之舍といへり。嘉永五年千尋明倫堂國學講釋御用を命ぜられ、躬之等と共に教授の任に當る。同六年米露の軍艦來りて互市を求め、世論紛々たり。千尋乃ち來舶神旨・近世諸蕃來舶集等の書を著し、又海外互市適神旨歌並びに短歌を詠じ、外國通商が國体の大本にして列聖の遺猷なる所以を論じ、世人の迷夢を覺醒せんことを期せり。維新の後千尋皇學講師又は文學教師となり、明治五年八月五日歿す、年六十九。 春の初によめる うら〱と霞をよもに敷島ややまとしまねの春ぞのどけき 歳暮 いたづらにことしもくれぬ必とわが誓ひてしこともありしに 高木有制、通稱守衞、人持組の士大野木克誠に仕ふ。有制田中躬之の門に入りて國學歌文を學び、明倫堂國學内用に加へらる。後元治の變に國事に奔走して永牢に處せられしが、明治元年赦され、金澤縣學校係出仕・白山比咩神社權宮司等となり、七年五月十六日歿す、年五十二。 伊勢大神宮に參りて 五十鈴川ながれ絶えせぬ君が代の榮えをいのる宇豆の大前 讀古書 披き見る文に神代の御手ぶりをちゞに一つも知るぞかしこき