葛原秀藤は珠洲郡飯田春日神社の神職なり。明和五年三月その家に生まれ、幼名を材麿といひ、後に鎌六と稱す。人となり頴敏にして讀書を好む。十七歳金澤に遊び、藩士寺島兢・津田鳳卿等の門を叩きて學を問ひ、二十六歳京師に出で後頼山陽・大鹽後素・小石檉園等と交る。秀藤世人をして國體の尊嚴なる所以を知らしめんと欲し、童蒙日本魂を著し、資を投じて之を刊行し、又神職子弟を集め、國學を授くるに名を籍りて勤王を鼓吹せんとせしが、偶後素の亂起りしを以て、優遊和歌を友として晩年を送れり。而も尚大義名分を明かにするに志しゝは、秀藤が楠正儀の行動に關する疑義を山陽に質し、山陽の之に應へたる書今尚存するを以て見るべし。萬延元年六月歿す、年九十三。 思ひきや春日の山の山守になりてこの身の朽ち果てむとは 水野三春、通稱近江又は和泉、能登神代村の祠人なり。文化八年吉田家に入門して神道を研究し、嘉永五年能登四郡社家の觸頭となる。三春又田申躬之の門に入りて國學和歌を究め、文久二年二月二十五日歿す、年六十三。家集に葛の屋集三卷あり、今家に藏す。 無題 學ぶ身は山した水のとこしへにやまず流れてやまじとぞ思ふ 寄國祝 あめつちに根ざしかためて皇の御代はたえせぬあしはらの國