恒川登壽、通稱は判左衙門、穩樂齋と號し、和歌を好みて歌會を催し、文久二年六十八歳を以て歿す。その著に穩樂齋隨意集十一卷あり。 此の時代に至りて狂歌を詠ずるもの甚だ多し。今その勝れたるものを擧げん。 藤田克章、通稱を玄登左衞門といふ。文政三年醫を以て藩の老臣長大隅守連愛に仕へ、狂歌を以て名三都に聞え、所居を蓬生軒といひ、太甲鈴麿又は鈴丸と號す。家集に鈴丸家集あり。天保六年歿す。 逆にかゝれる餓鬼の苦しむをすくふ釋氏の御手のうら盆 いさむとも桂の花のちらばこそ雲ゐにかけれ望月の駒 西南宮雞馬、通稱は瀬波屋宇一、後に名を犀輔と改む。西南宮の號は、その家神明宮の西南に當るが爲にして、別に革山人・託花園・東北齋・暖雪樓等の號あり。雞馬、蜀山人・宿屋飯盛・鶴廼舍・窻之舍等の狂歌師と親交あり。嘉永の初金澤町會所の吏となる。門人頗る多く、加能越三州に充つ。雞馬の詠ずる所洒脱にして、世の俗惡なるものと日を同じくして論ずべからず。 春の野 同じ野に在りても雪とすみれ草もえ出るのと消えてゆくのと 粟崎歸雁 かしぐてふ粟ヶ崎にも聲立てば夢をし破りかへるかりがね