狩谷鷹友、初名隆平又は隆友、後に鷹友・高靹・竹靹の字を用ふ。通稱は金作、後金吾と改め、其の居を神習館といふ。夙に田中躬之の門に入りて皇學を修め、業成りて徒に授く。嘉永五年明倫堂新たに皇學の科を設け、躬之を擧げて訓導とし、尋いで鷹友を擧ぐ。當時外舶屢沿海に來り、幕府通商條約を結ばんとす。鷹友之を憤慨し、駁蘭長賦を詠じてその志を述ぶ。安政四年前田齊泰、學士數人に命じて類聚國史補を撰ばしむ。鷹友は躬之の業を繼ぎ、二十五卷編輯の功を終へ、繋くるに序を以てせり。明治五年鷹友白山比咩神社宮司に任じ、大講義を兼ぬ。著す所馭戎類制・之許乃御楯・那良乃志乎理・眞弓園集等あり。明治十一年六月三十日歿す、年五十七。 新年山 八重霞かすむとすれど白山の雪よりしらむはるのあけぼの 千丈瀑 ちたけとはうち見るほどの名のみにて本末知らぬ白山の瀧 駁蘭長賦狩谷竹靹 西の洋の、はてなる洲の、えみし等が、なりでしもとを、つら〱に、おもひ量らひ、かやつらが、心しわざを、かつ〱も、かむがへみれば、天地の、わかれしときに、二柱、御柱の神の、八島國、うましゝはじめ、女神まづ、言先たちて、ふさはずも、みあひましつる、あやまちの、御中ゆあれし、蛭の子は、三歳なれども、あしたゝず、ゆゝしき子ぞと、おや神の、あはめにくみて、み子たちの、つらにもいれず、葦船に、とりのせたまひ、海原に、ながしうてつと、ちはやふる、神の御書に、まつぶさに、しるされにたり、あはれこの、蛭子の神の、さすらひし、ゆくへいづこと、もとむれば、わがひむがしゆ、風のむた、にしへにながれ、いなしこめ、ねそこの國に、とゞまりて、あかえみしらが、國たまと、だりにけらしも、かゝれこそ、風のまに〱、さすらひし、そのあしぶねを、例にて、今もかれらが、いきのかぎり、大海原を、こぎかよひ、めぐるなりけれ、から人の、四方をばよつの、時にしも、配當(クマリアテ)たる、つぎてにも、西は秋にぞ、屬(ツク)といふ、あきちふことも、商業に、よれる名なりと、いにしへの、物識人も、いとはやく、いひけるものを、うべなうべな、西のえみしの、ひたぶるに、ものあきなふを、たぐひなく、たふときわざと、おもひとり、こゝにかしこに、ゆきかよひ、たかきいやしき、けぢめなく、たゞこのわざに、うちはえて、みをもくるしめ、こゝろをも、くだくにぞある、こゝゆゑに、わがあき人は、ひるの子を、えびすの神と、となへつゝ、そのなりはひを、さかゆべく、まもりさちはふ、御たまとし、さだめまつれり、古代(フリシヨ)は、大みくぬちに、此神を、いはひし宮も、此たまを、祭りしあとも、たえて世に、聞えざりしを、津の國の、武庫の郡の、御心を、廣田の神の、おはします、御やしろぬちに、それをしも、西の宮とし、世の人の、となふることは、山城の、たひらのみやゆ、にしべにし、あたるゆゑとぞ、しかれども、かくいふことの、もとはしも、なほ皇國の、にしべなる、えみしの神の、みやといふ、義(ココロ)なるべし、それはしも、とまれかくまれ、これはしも、たゞわたくしに、あき人の、祭初けん、宮なれば、官社(ツカサヤシロ)に、あらずかし、いでから人の、昔より、皇大國(スメオホクニ)を、御祖國、大君國と、まごゝろに、したひまつろひ、まゐくれば、しかほど〱に、撫たまひ、をさめ給ふを、ゆくしかも、かのおやがみの、すてらえて、さすらひしよを、うちわすれ、あらびそむきて、うかねらひ、あたみ來れば、立まちに、神も怒らし、人皆も、ころびをおこし、討攘ひ、いぶきはなちて、皇國(ミクニ)には、いよせつけぬも、神の代の、幽契(イハレ)によれる、ことなるを、つゆいさゝかも、えさとらず、よものえみしの、はかなくも、さへづりかはし、度まねく、爰かしこより、味きなき、いたづらごとの、たはことの、およづれごとを、聞えあげ、いよりつたふを、しかすがに、もとつみ國の、租國の、みたまのふゆと、くさ〲に、めぐみたまへば、おのづから、かのことすべく、國ふみも、大み國(ク)ぬちに、ほどこりて、よみとく人も、やゝ〱に、おほくなりつゝ、測算(ハカリワザ)、醫術(クスシノミチ)と、とり〲に、習ひまなばひ、もてはやし、めでくつがへり、いつとなく、まどひふけりて、かしこきや、直く正しき皇國(スメクニ)の、大みふみらは、一言も、わきまへしらず、ひとむきに、あしまのかにの、横もじの、よこさのみちを、うれたくも、學びきそひて、えみしらが、てらふまに〱、われもひとも、けしくあやしき、うつはもの、翫びもの、なにくれに、こがねをへらし、こゝろをも、身をもいたづき、あしたゝぬ、ひるこの神の、はつこらが、ふねをともくみ、弓弱く、大刀鉾にぶき、しこくにの、筒をうらやみ、ぬほこをし、眞柱としも、つき立てゝ、神の固めし、わが國の、いはれをしらず、しほなはの、こりてなりけむ、他國の、けがしきてぶり、したふをば、世にさかわざの、まがわざの、しれわざとしも、いはざらめやも。