高林景寛、初め久津見宣といふ。字は子栗。學を好み、歌道は之を田中躬之に學びて善くせり。明治十四年歿す、年七十四。 月下幽志 ともすれば我をわすれて月影を傾むくとのみながめけるかな 瀧 ながれいづる末のみくみて瀧つせのその水上はとふ人もなし 臼井憲成は藩士なり。草の屋と號す。歌道に熱心にして、維新の後金澤白髭神社献詠會の宗匠となり、門人甚だ多かりき。明治十九年十月二日歿す。著す所雅言略解あり。 月 秋のよは心もそらにすむ月のかつらの本にたつかとぞおもふ 歳暮 怠らでうつる月日におこたりし身のしられぬる年の暮かな 石黒魚淵、通稱堅三郎、明治の後諱を以て名とす。號は晩香又は九如。文化十四年寺内氏に生まれ、後石黒判太夫の養子となる。幼にして國學及び歌道に志し、田中躬之・黒澤翁滿・鈴木重胤に從遊す。弘化以後世子近習・改作奉行兼定檢地奉行・産物方・軍艦方等の職を奉じ、又大坂留守居役となり、武田耕雲齋事變に南越に出動す。明治初年民部省庶務司准大祐となり、高崎縣小參事に轉じ、次いで明治二十一年一月伊勢に赴きて神宮教本院に奉職し、五月愛知本部に轉じ、二十二年三月大講義に任ぜられしが、翌年四月二日歿せり、享年七十四。著す所詞の山比古・旭櫻雜誌あり。 花盛 加茂かつらふたつの川をとだえにてみやこをうづむ花の白雲 題しらず 動きなきしらねたち山打わたすあきのたのみは千代の數かも 詠月前時鳥歌併反歌 ほとゝぎす、しばなく空に、月さへも、すみわたりたり、時鳥、なくのみならば、月かげの、すむ而已ならば、酒ありて、肴なきごと、さかなありて、酒なきがごと、其酒の、うまからめやも、其肴、うまからめやも、さけさかな、取よろひてぞ、心ゆく、宴となりてあなをかし、あな面白と、おもはずも、うたひも出れ、思はずも、舞てもいづれ、今宵しも、月のみ船に、ほとゝぎす、聲ほに上げて、酒さかな、とりようふごと、取ようふ、野山くまなく、月見れば、郭公なき、ほとゝぎす、きけば月見え、つきや鳴く、なくねやてらす、あはれあな、こゑに影あり、かげに聲あり。 反歌 心あらむ人に見せばやきかせばやこよひの月よ山ほとゝぎす