高橋富兄、初名は富季、文政八年五月金澤に生まる。初め國學を田中躬之に學び、嘉永五年明倫堂國學代講を命ぜられ、遂に國學主講師となり、維新の後藩廳の社祠係となり、後各種學校教員となり、晩年第四高等學校教授に任ぜらる。富兄號を梅園又は古學舍といひ、類題石川歌集・日本文法問答・國文軌範・十訓抄校本等の著あり。その日本文法問答は、夙く外國文典の組織に倣ひたるを珍とすべし。この他幾多の歳月と努力とに成れる語彙・字典及び和歌集あり。又晩年に至りて考究し、學界一方の權威と稱せられたる音韻學の如き、頗る浩翰なる編述ありしも、遂に刊行を見ずして止めり。富兄殊に和歌を好み、明治後半に於ける金澤の歌壇は實にその牛耳を執る所なりき。大正三年九月歿す、享年九十。 葦 なには江や短き葦の一節もなくてえあらぬ世にこそありけれ 夏月 風をのみすゞしきものと思ひしは月出ぬ間のこゝろなりけり