終に大聖寺藩に就きて見るに、國學又は和歌に堪能なりしもの甚だ尠きが如し。今纔かにその事蹟の知らるゝもの數人を録す。 弗隱、名は善寧、加賀の人、江沼郡那谷寺第十世に住す。如是庵はその書屋の號なり。弗隱眞俗の書に於いて讀まざるなく、亦晩年皇國の學を好み、巧に和歌を詠ず。文化六年三月弗隱菅生石部神社に百首の和歌を上る。石部神社はその産土神なればなり。文政十年二月又白山歌百首を詠ぜしに、天保元年門下戒光僧壽請ひて之を剞劂に附し、題して志良山百首といひ、賀茂季鷹その序を作る。同八年十一月遷化するとき、年七十九。 白山歌百首の中 春霞かすむ隙よりほの〲と白ねぞしらむ夜はあけぬらし ひさかたの天にまぢかき白山をのぼりそめてしひとや神なる 三輪三隱は平井屋七左衞門と稱し、大聖寺の市人にして質業を營み、後醤油を釀造す。幼より強記絶倫、操持堅正なり。夙に皇朝の學に志し、本居宣長・加茂眞淵・平田篤胤・橘守部・藤井高尚等の著にして、事の苟くも皇朝に關するものは悉く渉獵せざるなく、語學は東條義文の書に就きて研究し、歌道は橘曙覽と交る。是に於いて才名藩主の知る所となり、嘉永元年町年寄となり、明治二年一代士族心得に進みて苗字帶刀を許さる。因りて三輪氏を稱す。その子弟を教授する懇切周到、國風の能くこの地に起りたるもの、職として三隱の力に由る。明治四十二年三月歿す、年八十八。 新竹 こゝにもとおもひしまゝに生ひ出てうれしくむかふ窓の新竹 山家初雪 ふりそめて雪も友まつ山里をとへかし人のみちたえぬ間に