加賀・能登二州に於ける俳壇の状態を述ぶるに當り、先づ貞門の徒に就きて見るに、明暦二年開板の貞室が玉海集に、大聖寺の重次、金澤の大橋可理・高田正種・篠田明忠・因元等あり。而して此等の中可理は、通稱を新之丞といふものにして、最も早く寛永十五年の奧書を有する西武が鷹筑波及び同年の序文を有する重頼の毛吹草にその名を列するが故に、貞徳の門派より出で、加能俳界の草分たる地位を占むるものなり。七尾の涼風軒提要もこれと流派を同じくし、曾て吟花堂晩山の能登に遊べる時にも、亦涼風軒に滯杖せり。元祿十二年提要能登釜を著す。才麿その序を作り、言水その跋を與ふ。而して應々翁方山も亦別に跋を記して、『名付て能登釜と云ふ、見れば口ぶりよし、聞に耳付もよし、尤道のすき人珍重すべきものならし。』といへるは、この年方山北陸に吟行して能登に入りしを以てなり。その間方山地方俳人の句を集めて、一部三册となし、之を北の箱と名づく。外題は、此等北陸の俳句決して放棄すべきにあらざれば、箱に入れ馬につけて歸洛したりとの意を現はしゝなり。提要の句風は、『青柳も松も聲なし京の山』といへる類なり。翌十三年七尾の細流軒長久・餘力堂勤文と相携へて京に上る。この時長久は年六十餘にして欅炭を刊行し、勤文は術若年なりしが珠洲の海を出せり。晩山の作れる欅炭の跋に、長久のことを、『往昔貞室の門に遊び、玉の海の藻草にもまじりしが、世ふり時の新しきにめうつり、當流の水に嗽して日比に句を吐。』といへるは、長久が初め貞門より出でゝ、後には晩山の俳風を慕へることをいふなるべしといへども、晩山は松堅門にし、松堅は貞門なるが故に、長久としては常に貞門の風に終始したるものにして、『炭燒も髭を剃るらんけさの春』の如き平凡境に安住せり。その殁後の追善集を三年草といふ。勤文の著珠洲の海は、能登の名勝に就いて記し、間々俳句を挿めるものとし、言水之が序文を作れり。勤文の京に在るや、一日東山の亭にて言水と會し、『菜の花や淀も桂も忘れ水』と言水のいへるに對し、『雲雀の雲にのぼる小心』と和せり。