是より先、加能最初の俳書菊酒刊行せらる。菊酒は今村幽也・一烟・成田頼元・杉野閏之・高田貞之等の付句を拔萃し、卯辰山長谷觀音に詣づる文を掲げて延寶四年三月上旬の日付を記し、終に一烟の發句百句を載するもの。阿誰軒俳諧書籍目録に書名を菊酒付とし、伊勢の慶彦神主の著せる白山奉納集の追加なりとするものは全く誤りなるも、延寶六年京井筒屋の出板なることは之を信じ得べく、著者一烟は後に一煙とも書せる金澤の人宇野氏なり。天和元年宮ノ腰の杉野閏之加賀染二卷を編み、久津見一平之に跋し、金澤上堤町の書肆麩屋五郎兵衞をして之を板行せしむ。五郎兵衞は後に三ヶ屋を繼ぎたる野村文志なり。次いで天和三年七月伊勢の大淀三千風が加賀を通過したりしことは、日本行脚文集に載せられ、之に因りて亦頗る地方俳壇の状勢を窺ふを得べし。三千風のこの國に入るや、金澤の一正に『加賀諸(ムク)や金風肌を粧ひたる』の句を與へたるに、一正は『持參の露をしのぶずりの脚半』と和せり。一正は井筒氏なり。三千風又友琴に、『君が名や松の調べで千里の律』の句を贈り、友琴は之に對して、『兎玉飛ぶ三千風景一耳たり』と應じ、泉和徳には『泉けり底に金の一葉風』といひしに、和徳は『糒をくらひたのしみ秋にあり』と答へたりき。西方寺の住侶も亦この道を愛したりけん、強ひて彼に宿泊を請ひたりしを以て、三千風は『顧るや撞木の梢月が鳴る』と咏じて、その好意を謝せり。三千風尋いで小松に至り、多田神杜に詣で、安宅・篠原の古戰場を弔す。時に小松の人武部元武は『辯のよきがそれぞ逃すな安宅の月』、武部正儀は『人に似て候ぞ先づこの月は二三日』、興善寺箏雲は『古歌をひけば立とゞまりつれ一葉蔭』、駒井正堯は『追ひかけていざ客僧に月一つ』などと吟じて之を好遇せり。是等皆滔々として檀林調ならざるなきを見るべく、下りて元祿六年には、宗因門の俊秀高島徹士も亦來りて久しく滯杖せり。 金澤の小杉一笑は世に梅盛の門下なりとして傳へらる、これ彼が梅盛の選集中にその吟咏を載すればなり。