然れども誹枕集・俳諧雜巾にもその名を列するを以て見れば、地方の貞門は必ずしも純粹の貞門たらず、檀林亦決して潔白の檀林にはあらざりしなり。牧童が宗因の風流を慕ひしといふも然り、北枝も然り、句空も然り、萬子も亦然り。皆常に新興の俳風に注目を怠らず、終に相携へて芭蕉の葉蔭に悠遊するの人となれり。而して此等の徒に三十六・友琴の二人ありしことを忘るべからず。三十六は卅六とも書し、又六々庵ともいふ、名は今村紹由。元祿六年三十六、牧童・句空・友琴と共に興行して、金澤の郊外猿丸宮に奉納せる連俳を集め、題して猿丸宮集といへり。三十六の句態は、『朝霜や都の菜賣雲母坂』といへるが如し。友琴は神戸氏、又幽琴・幽吟の字を用ひ、山茶花逸人とも識趣齋とも號す。京師の産、嘗て學を北村季吟に受けしが、弱齡金澤に徒り、糕菓を賣るを業とし、傍ら俳道を以て人に教へたりき。延寶八年友琴白根草を著し、京山森六兵衞をして板行せしむ。天和三年三月友琴、正勝・柳糸・一風・一煙と共に、五吟百韻四卷及び追加表一卷を賡ぎ、金澤堤町の書林升屋傳六をして出板せしめ、題して俳諧金澤五吟といへり。友琴の俳風は初め貞門に親み、檀林に移り、蕉門の徒大に起るや、亦之と交れり。その著に劔酒・卯花山・色杉原等あり。寶永三年十月十三日を以て歿す、齡七十四。時に百花堂文志一夜友琴の亡靈顯はれて、『艷賀の松われに扇をたゝみ禮』と吟ずるを夢む。因りて五年その追悼句集を編し、題して艷賀松といへり。文志が書肆三ヶ屋五郎兵衞なることは前に言へり。 貞享に入りて芭蕉獨創の天地漸く開かれ、我が地方の俳士亦その幽玄閑寂を愛するものを生ぜしが、彼等が相率ゐて芭蕉の大傘下に屬するに至りしは、實に元祿二年奧の細道を經廻して、歸途こゝに足跡を印したる結果ならずんばあらず。是を以て彼が加賀を通過せし當時の事情如何は、最も詳密に之を究めざるべからず。芭蕉が越中より倶利伽羅を超えて、金澤に入りしは、この年七月十五日なりしが、偶大坂の商人何處も亦こゝに在りしを以て、之と旅宿を共にせり。何處は素より俳諧を好むものなり。而して彼の來杖の遠近に報ぜらるゝや、同好の徒爭ひて來り集りしが、芭蕉は彼等の談によりて、去年十一月六日一笑の三十六歳にして遠逝せることを知り、悲痛禁ずる能はざりき。一笑は加賀の俳人中最も早く蕉門に歸依したる人。是より先一笑、芭蕉の久しからずして北陸を過ぎんとするを聞き、彼にして若し來らば、必ず己の家に宿泊を乞はんと期せり。既にして一笑病に臥したりしが、偶父の十三回忌に會したるを以て、十三卷の歌仙を供養せんと志し、痛苦を忍びて滿尾したる後、『心から雪うつくしや西の雲』の句を殘して世を辭したるなり。芭蕉乃ち一笑の兄ノ松(ベツシヨウ)の催しける追悼會に臨み、『塚も動け我が泣く聲は秋の風』の句を手向け、芭蕉に隨ひたる曾良は、その墓じるしに竹を植ゑたるを見て、『玉よそふ墓のかざしや竹の露』といひ、何處も亦『常住の蓮もありや秋の風』の句を捧ぐ。一笑臨終の状は其角の雜談集に詳しく、その追悼句集はノ松の編輯によりて元祿四年に成り、題して西の雲といへり。