芭蕉又松玄庵に臨み、『殘暑しばし手毎にれうれ瓜茄子』を發句として半歌仙を興行し、一泉は『短かさ待たで秋の日の影』と次げり。松玄庵は一泉の居にして、諸書に少幻庵と誤らるゝもの。芭蕉の句は、後に『秋涼し手毎にむけや瓜茄子』と改案せらる。芭蕉また句空の柳陰軒に宿して、『散る柳主も我も鐘を聞』の句あり。小春も亦一夜芭蕉を留めて、『寐るまでの名殘なりけり秋の蚊屋』と吟ぜしに、芭蕉は『あたら月夜の庇さしきる』と次韻せり。而して北枝は終始芭蕉に侍して離れず。二人の共に野田山に至りし時、北枝に『翁にぞ蚊帳つり草を習ひける』の吟あり。芭蕉が『あか〱と日はつれなくも秋の風』の句を得たるも、亦この前後のことなりしと思はる。この句、奧の細道には途中唫と題せられ、曾良の雪丸には『旅愁をなぐさめかねて、ものうき秋もやゝ至りぬれば、流石目に見えぬ風の音づれもいとゞしくなるに、殘暑尚止まざりければ』との端書あり。雲蝶の百合野集には淺野川なる大橋のほとりなど逍遙したる時の詠とし、車大のとしのうちには犀川橋上の吟との前書を加ふ。そのいづれの地に於いてしたりし句なるかは明らかならず。芭蕉次いで金澤を去り、小松に至りて『しほらしき名や小松ふく萩薄』と吟ぜり。この句雪丸には『北國行脚の時、いづれの野にやはべりけん、暑さぞまさると詠みはべりし撫子の花さへ盛り過ぎゆく頃、萩薄に風のわたりしを力に、旅情を慰めはべりて』と前書す。鼓蟾といふもの『露を見知りて顏うつす月』と次韻し、四十四の連歌あり。芭蕉又歡生亭に至り、『ぬれて行人もをかしや雨の萩』の句を作り、歡生『芒がくれにすゝきふく家』と賡ぎ、二十韻を滿尾す。時に七月二十六日なり。多太神社に藏せらるゝ木曾義仲の冑といふものも、亦一行の觀賞したる所にして、芭蕉は『あなむざんやな甲の下のきり〲す』といひ、後に『むざんやな甲の下のきり〲す』と改案せり。享子これに對して、『ちからも枯れし霜の秋草』と次し、乃ち歌仙を興行す。俳家奇人傳によれば、この時芭蕉は、連歌師能順を梅林院に訪ひたるに、能順『秋風は芒うち散る夕べかな』『秋風に芒うち散る夕べかな』の二句を示して、連歌と俳諧と、發句の差別かくもやと尋ねしに、芭蕉はその識見に服したりといへり。思ふに梅林院のある所は小松に接し、社殿明暦創建の後尚久しからずして、莊嚴の名領内に囂しかりしかば、芭蕉も吟杖を曳きたりしなるべく、當年六十二歳にして連歌の名匠を以て目せられたる能順が、尚僅かに初老を超ゆること六歳なりしとはいへ、聲譽一世に揚れる俳壇の巨擘芭蕉の參詣を喜び、直に之を座に延きて數刻の閑談を交へしこと、亦決してこれなかりしとは斷ずべからざるなり。後芭蕉の享年五十有餘にして歿するや、能順之を聞きて、極老の作者は古人も風流の劣るものなるが故に、芭蕉の如きは死期を得たる者なりといひしとの譚は、俳諧世讀に録せらる。 西の雲上卷金澤市石黒傳六氏藏 西の雲上卷