芭蕉に隨行せる曾良は、この地に來りし時、櫛風沐雨長途の勞れにもやありけん、胃膓を害ひて、獨り伊勢國長嶋に歸らんとせり。因りて北枝は『馬かりて燕追ひ行く別れ哉』と詠じ、芭蕉・曾良と共に三吟の歌仙を興行したりしに、曾良は『ゆき〱て倒れ伏すとも萩の原』と留別の懷を述べ、芭蕉もまた『けふよりや書付消さん笠の露』といひて離愁を悲しめり。北枝の句は『馬おりて』にも作らる。次いで芭蕉の山中を去るや、『湯の名殘今宵は肌の寒からん』といひ、北枝も亦『きくの里見るたび泣かん湯の名殘』と吟ぜり。それより二人大聖寺に出で、桃妖一門の菩提所たる全昌寺に赴きしに、曾良は前夜こゝに宿りて、『終宵秋風聞くやうらの山』の句を殘し、獨行無聊の意を傳へたりき。翌曉芭蕉の寺を出でんとする時、雛僧追ひ來りて揮毫を求めしかば、彼は『庭掃いて出づるや寺に散る柳』の吟を與へ、又熊坂の地こゝより遠からざるを聞きて、『熊坂がゆかりやいつの玉まつり』と歌へり。前句は一に『出でばや』に作り、後句はまた『その名やいつの』とし、或は『熊坂をとふ人もなし』に作る。是より孤舟を吉崎の入江に浮べ、終に越前丸岡の天龍寺に宿し、九頭龍川を越えて松岡に入るや、北枝は行雲流水遠くも來りけるよと心付きて別れを告げけるに、芭蕉は『もの書いて扇へぎ分る別れかな』の句を與へたりき。北枝乃ち『笑うて出づる朝霧の中』と激勵し、逈かに師の悄然たる孤影を見送れり。『もの書いて』の句は後に『扇引きさく別れかな』に改めらる。北枝こゝに來るまで隨從多日、亦大に努めたりといふべきなり。 芭蕉一たび北陸を過ぎて、薫化深く加賀の俳界に及ぶ。是を以て風雅の士時々上國に赴きて謦咳に接するを喜びしが、元祿七年十月十二日疾みて難波に歿するや、皆慈母を失ひたるの感なき能はざりき。その訃音の金澤に達したるは十一月三日なりしが、北枝は『きゝ忌にこもる霜夜のうらみかな』と吟じて之を悲しみ、次いで北枝・萬子・巴水・ノ松・牧童・三十六・塵生等皆追悼の句を送れり。此等載せて路通の芭蕉行状記に在り。又八年正月その百日忌には、越中の浪化偶金澤にありしかば、北枝・句空等と作善の歌仙を賡ぎ、小祥忌には秋の坊の草庵に於いて、故翁が坊に與へたる『やがて死ぬ氣色は見えす秋の蝉』の句を掲げ、句空・北枝・牧童・四睡・漁川・秋の坊相會して時雨の句を詠じ、大祥忌には北枝粟津の無名庵に至りて、廟前に『笠提げて塚をめぐるや村時雨』の句を捧げ、歸郷の後追悼の吟を集め、翌年之を刊行して喪の名殘といひ、十三回忌には、金澤にて北枝・從吾・秋之坊・牧童・長緒等、小松には塵生・宇中・夕市・湫喧・彳人等、大聖寺にては野睡・關雪・里楊・長水・桃妖等、皆追遠の俳諧を興行せり。後寛政五年金澤の松菊、霜農宇都里を編し、闌更之が序を作る。亦芭蕉百年正當忌の追悼集なり。