加賀の俳徒中、芭蕉の啓發によりて最も頭角を露せるものは北枝なり。北枝は立花氏又は土井氏、通稱を研屋源四郎又は三郎兵衞といふ。舊と能美郡小松の産にして、父を彦兵衞といひ、金澤に移りて磨刀を業とせり。その所居を壽夭軒又は趙翠臺といひ、鳥翠臺又は趙廓とも號す。芭蕉嘗てその才を稱して北枝は發句師なりと戲れ、本朝文選には北方之逸士也と評し、世に十哲の一人に算す。芭蕉北遊の翌元祿三年三月、金澤に大火ありて、北枝の家亦災に罹りしかば、彼は『やけにけりされども花はちりすまし』と吟じたりき。芭蕉が四月二十四日附の消息に、『去來・丈草も御作驚申計に御座候。名歌を命にかへたる古人も候へば、かゝる名句に御替被成候へば、さのみおしかるまじく存候。』とあるは是をいへるなり。この年暮、乙州の大津に上るに及び、芭蕉は北枝罹災の事情を詳かにせるが如く、四年正月三日附の消息に、『其元にて書申候者は御燒不被成候よし、米櫃はやけ可申候。』といへるによりて、北枝がその家を失ひしも尚師の手跡を携へ遁れたるを見るべし。北枝の性疎懶、常に橧笠を戴を太き杖を曳きて徜徉す。兒童その何くに往くやを問ふに、『發句拾ひに』と答へたりしといへり。實に北枝は作句を以て生涯の大事業とし、隨つて俳道の蘊奧を極めんと欲する意の熾なること、能く他人の及ぶ所にあらず。されば元祿二年、芭蕉の山中温泉に在りしとき、北枝は師に質したる事項を編して山中問答といひ、五年附方八方自他傳を記して芭蕉の校閲を得などしたりしが、芭蕉も亦之を教導すること親切にして、某年十月十三日附消息には、『山中問答にも三つ物の事御尋なく、我も心付不申候。此度委三ッ物傳別紙にて申入候。』といひ、六月二十七日附消息には『附合十七体別紙に記進候。初心には見せ申されまじく候。』と書き送りて、前に授けたる遺漏を補説せり。しかも北枝が尚己の聞き得たる所を足れりとせざりしことは、彼が芭蕉百日の忌に當りて、『とひ殘す歎の數や梅の花』と吟ぜるにても之を知るべきなり。次いで元祿九年芭蕉の墳に詣で、翌年喪の名殘を刊行せしことは前に言へるが如く、編中に去來・丈草・正秀・惟然・風國・木節等、蕉門の俊髮を網羅して一大選集を爲せり。寶永三年三月支考京師に於いて芭蕉の十三回忌を營まんとし、北枝を招請す。時に北枝は『回祿有斷』て參會せざりしこと東山萬句に見ゆ。葢しこの年二月五日北枝の家再び災に罹りたるを以てなり。その後幾くもなく支考北遊して小松に至る。小松の俳人等、北枝が將に新居を興さんとするを聞き、支考と共に句を作り、刊本として之を贈れり。家見舞と題したるもの即ち是にして、支考の句には『やけにけりされども櫻咲かぬ間に』といひ、北枝の自賀には『さい槌の祀儀にならす水雞かな』といへり。正徳二年北枝大坂に至りて舍羅を訪ふ。その會見の状は俳諧世説に記さる。北枝の著す所、前に擧げたる外北枝考・蕉門誹談隨聞記あり、句空との共著に卯辰集あり。俳文には仁不仁論・族野郎をあはれむ詞・居眠辯等あり。その句集には、天保三年加賀の北海によりて輯められたる北枝發句集あり。享保三年五月十二日歿す、趙廓北枝居士と諡し、心蓮社に葬る。この年追悼句集を刊行してけしの花といふ。書名は北枝が亂世の句『書いて見たり消したり果はけしの花』によるものにして、覇充之に序し、空水之が跋を作る。寛政十一年晩秋、眉山等その追悼會を春日社に營み、句集を北枝會と題す。天保四年翠臺・年風催主として、墓側に新碑を樹て、梅室之に銘し、明治十二年雪岱・超翠等更に墓を修し、二百年忌の追悼會を豫修し、その句を集めてかやつり草と題せり。 北枝消息金澤市村松七九氏藏 北枝消息