北枝の兄を牧童といふ。立花氏、通稱研屋彦三郎、所居を帶藤軒又は圃辛亭と號す。亦金澤に住して刀劒研磨を業とせり。俳諧は初め檀林より出で、後に蕉門に歸す。芭蕉の消息中には牧童に宛てたるものあり、又牧童に傳言を依頼せるものありて、師弟の交情大に厚かりしを知るべく、支考の牧童傳には『吟席交會此人をしらずといふ人なし。』といへば、亦深く俳諧を愛したるを見る。しかもその穿鑿を好まざる點に於いて、資性弟北枝と同じからず。牧童常に曰く、余往昔芭蕉に見えしが、東武の素堂が『浮葉卷葉此蓮風情過ぎたらん』といふ句の物語に及びし時、師がこの句此蓮(レン)と讀むべしと教へ給へる外一事を記憶することなしと。その恬淡かくの如し。但し牧童に嗜眠の癖ありしことは北枝と一なりしが如く、支考は彼を評して、『時に居眠りをもて生涯の得物とす。ある時は欄干の花にそむき、ある時は檐外の鳥を聞きながら、ねむり來りねむり去りて、四十年の春秋も過行』きたりとし、北枝は自らその居眠辯に、『世にいふ、翠臺の北枝は萬事ねむるにたへたりと。花にそむきて眠るにもあらず、月に對してさむるにもあらず、唯よくどこでもねむるもの也。』といへるもの、また一奇事とすべし。牧童某年正月十九日歿す。嘗て支考と共に草苅笛の著あり。 句空は鶴屋氏。世に彼の祖先を武士なりと説くものあるは、艸庵集なる一枝亭玉斧の文を誤解せるに由る。句空卯辰山に柳陰軒を結びて隱棲し、後知恩教寺に詣りて剃髮せり。葢し彼の眼疾に苦しみて、元祿十年頃より越中大岩山日石寺の不動尊に參籠したりしことは、艸庵集にも干網集にも見えたれば、薙髮の理由も亦こゝに在りしなるべし。柳陰軒の所在に就いては、艸庵集に、『卯辰山金剛寺は瑜伽最上乘の靈場にして、乙劔大明神垂迹の地なり。本地は不動明王なりとかや。此の院の北の山陰に大きなる藤あり、其蔭をたのみて住みし頃』といひ、布ゆかたには『方は金城の艮にして、山は卯辰の名あり。何がしの寺のかたはらに、草結びの庵ありて、庭に柳を植ゑられたれば、おのづから柳陰軒のあるじとはいふなるべし。』ともいへば、今は既に移轉したる久保市山法住坊金剛密寺の舊址附近なりしを知るべし。元祿二年芭蕉北遊の際この庵を訪ひしが、次いで彼は北枝と共に句空が撰集の計畫あるを聞き、遠國の發句を蒐集して贈り、且つ柳陰軒の閑雅を追想して、『一山の花も最はやひらき候らんとさつして。うら山し浮世の北の山櫻』といへり。この消息は日付を詳かにせずといへども、三年春に於けるものなること明瞭なるが、その直後三月の金澤大火災には、彼の庵室も亦北枝のそれと共に灰燼に歸するを免かれざりき。されば句空が『卯辰山の庵も、庚午の火にもとの野となりて、思はず里屋ずまひに。伊勢海老の陰にかゞまることしかな』といへるは、四年歳旦に於ける彼の感懷たりしなり。四月撰集稿を脱し、句空之に序す。題して卯辰集といふは、柳陰軒の所在にとりて卯辰山集とせんとせしを、芭蕉の改めたるなり。この年秋句空南上して芭蕉を粟津に訪ふ。句空の艸庵集に『先年義仲寺にて翁の枕もとにふしたるある夜、うちふけて我を起さる。何事にかと答へたれば、あれ聞きたまへ、きり〲すの鳴きよはりたると。』と記したるは、この折の事なるべし。既にして句空旅宿に就き、兼好の畫讃を求めたりしに、芭蕉『秋の色ぬかみそつぼもなかりけり』『しづかさやゑがゝる壁のきり〲す』の二句を與へしかば、句空は更に前句の揮毫を乞ひ、後常に之を壁上に展して師に對面の心地せりといふ。五年句空の撰集又成り、芭蕉の吟によりて北の山と題し、同年宗祇が白山禪頂の際に詠みたりといふ『天照す神のはゝそのみ山かな』の句を卷軸に置きて柞原集を編み、十三年艸庵集を出し、寶永元年更に干網集を撰して、地方俳界の爲に氣を吐けり。正徳二年水無月句空山中温泉に浴す。門下の文志・知角・十九・折青・垠之・百水・松柳・也水は柳陰軒に集り、上湯を祀せん爲に俳諧の連歌を興行し、句集を編みて布ゆかたと題す。その序に『齡も六そぢに五ッ六ッ過ぐれど、筆のあともおもしろく、去年の秋より月次といふ事を催し、』といへば、略句空の年齡を知るべしといへども、その歿年と墓蹟とは未だ明らかならず。