凡兆、名は達壽、一號阿圭。宮城氏又は越野氏にして通稱を長次郎なりといふものあれども確かならず。金澤の人、醫を以て京師に遊ぶ。俳諧を好み、蕉門に入りて秘蘊を開けり。元祿二年の曠野集、三年のいつを昔、四年の薦獅子集に、彼は號を加生といひしが、同年の猿蓑に至りて初めて凡兆といへるを見る。芭蕉と凡兆との關係は、貞享元年の入門に初り、元祿三年夏には芭蕉京に於ける凡兆の家に泊して、二疊の蚊帳に四ヶ國の人臥したりといふ風流を傳へ、同四年の嵯峨日記にも亦之を詳かにせり。而して凡兆の吟にして公刊せられたるものは、曠野集を以て最も先とし、僅かに二句を探録せられたるに過ぎざりしが、猿蓑に至りて、去來と共にその撰者となり、出色の秀詠多し。彼が一時七尾に在りしことは、その付句に『能登の七尾の冬ぞ住うき』といへるによりて推すべく、その京師に於ける住居は、林鴻の京羽二重に據れば、東洞院下ル町とあり。又彼が他人の罪に連座して獄に繋がれたることは、諸書共に一致する所にして、その罪状は曰人の蕉門諸生全傳に、『罪は蘭名バハンなり、和名ぬけ船といへる由士朗が許より申越したり。』といへば、拔荷の賣買に關するものならざるかと思はる。但し緑亭川柳の俳人百家撰に、彼が獄中に在りし時、『ゐのしゝの首の強さよ花の春』『かげらふの身にもゆるさぬ虱哉』と詠じ、その縲絏の苦を免かるゝに及びて、『骨柴の苅られながらも木の芽哉』といひ、終に此の如き災禍を得たるを耻ぢ、『五月雨に家ふりすてゝなめくぢり』と吟じて踪跡を韜晦せりといふは、幾分の誤謬あるべく、骨柴・五月雨の二句、共に夙く猿蓑に載せられたるを見る。ゐのしゝの句は、元祿十一年種文の猿舞師に、よみ人しらずとあれば、當時既に彼が罪餘の人たりしを見るべし、凡兆の俳文に就いては、曾て憎烏の文を作りて芭蕉に示したる時、芭蕉が作文の法に關して教へたる書簡ありて、既白の蕉門昔語に出で、その柴賣説は本朝文選に載せらる。世或は凡兆の後に加賀に歸りしことを傳ふるものなきにあらずといへども、そは全然無根の事なるべく、元祿十二年には大坂に在りて、舍羅を助けて荒小田を選し、十五年朱拙の著したるはつ便には江戸の肩書を附せり。且つ凡兆の正徳四年春大坂に變死したることは、古來の通説なりしが、近く伊賀の服部土芳が羽紅に宛てたる消息の發見せらるゝに及び、その事實たる確證を得たり。凡兆の俳才非凡、憾むらくはその日常生活の郷土と關係なきことを。羽紅が凡兆の妻なることは荒小田に見え、その實名のとめなることも蕪村の玉藻集に見ゆ。芭蕉のとめに與へたる消息亦有の儘に見えたり。或はいふ羽紅は去來の姊なりと。羽紅天質蒲柳、元祿四年髮を梳るに堪へずとて圓顱となりし時、『笄も櫛もむかしや散る椿』といひ、その辭世には、『ゆく雲に又連れだゝん時鳥』といへり。