秋の坊は石川郡鶴來の人とも金澤魚問屋の隱居ともいはる。俳僧となりて卯辰蓮昌寺の別堂に住めり。支考が獅子物狂の中に、『爰に聞ゆる秋之坊は、一城の人ににくまれて、三越の人にしたはれしが、』といへるは、その緇衣を着くるに至りし次第を述べたるものゝ如しといへども、事實の詳を明らかにせず。秋の坊もと北枝と相善かりしことは、北枝が秋の坊の閑窓に倚りて、『虫の音のしばしほそかれ丈夫心』など吟ぜるを以て見るべし。然るに芭蕉北遊の際事によりて相爭ひしことは、元祿三年芭蕉の句空に與へたる消息に、『北枝・秋の坊風流のあらそひなどおもひ出し、』といへる如し。この年秋の坊芭蕉を湖南の幻住庵に訪ひしに、芭蕉は袂別に臨みて『やがて死ぬけしきは見えず秋の蝉』の句を與へたりき。支考の北遊するや、秋の坊又之と交る。本朝文選に載せたる支考が示秋之坊辭に、『あら秋の坊や、紅葉の秋か、世の秋か、又たゞ秋の坊なるか、見ればいとにくさげに、見ねばまたなつかし。』と記し、獅子物狂に蓮二房の名を以て載せたる舊感詞並びに序には、『一日さしむかひて物いはねど、物いふ歌舞のあそびにもまさりぬ。』といへるによりて、二人の交情と秋の坊の爲人とを知るべし。享保三年正月四日寂す。法號を寂玄院日明といひ、蓮昌寺内に葬る。世に傳へて『正月四日よろづこの世を去るによし』の句を秋の坊の辭世なりとするは、正徳二年板布遊かたに伊勢の涼莵が諷竹追善の爲にせる吟として載する所なるを以て誤とすべきも、秋の坊が忌辰正月四日なることは蓮昌寺の過去帳にも、支考の獅子物狂にも見ゆ。 秋之坊消息金澤市殿田良作氏藏 秋の坊消息