蕉門に在りて特殊の地位に立てるものは萬子なり。萬子は生駒氏、諱は重信、通稱傳吉、後に萬兵衞と改む。八郎右衞門の子。父の歿せし時、萬子齡十三なりしを以て、藩の法によりて世祿三分の一を給はりしが、延寶元年に至りて本俸千石に復したりき。その家金澤三社に在りて水國館又は水國亭といひ、古道にある茶廬を此君庵といへり。號は萬子・龜巣・白騮居士・〓居士。萬子初め檀林の俳風を學び、貞享四年尚白の著せる孤松集に小杉一笑と共に活躍せり。既にして萬子蕉門に歸せしが、その秩祿豐富なるを以て夙に騷客の推す所となり、亦善く資を捐てゝ彼等の窮乏を救へり。されば萬子が初めて芭蕉に會せし時、翁は門人諸國に滿ちて事足りぬべければ、我は方外の友となりて遍く俳諧を守護すべしと語りたりと俳諧世説に見え、秋の坊が『寒ければ山より下を飛ぶ雁に物うちになふ人ぞ戀しき』といひやりたるに、萬子は『寒ければ山より下を飛ぶ雁に物うちになふ人をこそやれ』と返歌して、炭を與へたりとのことも亦同書に載せられ、北枝が此君舍より白米五斗と、『一に俵ふまへてこせよ年の坂』の句を惠まれたりとのことは、芭蕉消息集に出でたり。支考も亦萬子を推稱して、我が友にはおそれありと獅子物狂に書き、又その本朝文鑑には、芭蕉の友に萬子・素堂あることを記せり。萬子享保四年四月二十七日歿す、享年六十六。水國亭一道萬子居士と諡し、高巖寺に葬る。萬子の手記に金蘭集ありて、連俳百餘卷を藏む。僧一匊之を書寫し、越の甘井に傳へ、二人は之を刊行するの志ありて未だ果さゞりしが、後文化十年闌更補正して梓に上せたりき。萬子の俳文は、本朝文選に愛梅説あり。越の名殘・そこの花の序も亦その作なり。