小春は宮竹屋伊右衞門といひ、本名龜田勝豐、金澤片町に住して藥種を業とし、所居を白鷗齋と號す。芭蕉の北遊せしときその家に宿せしが、饗應頗る善美を盡くしたりしかば、芭蕉之を喜ばず、風雅の眞味が閑寂に存することを諭したりとの譚は俳諧世説に出でたり。小春が『寢るまでの名殘なりけり秋の蚊屋』といへるは、この芭蕉を迎へし時の作なり。元祿三年芭蕉の小春に與へたる消息に、彼が『十錢を得て芹賣のもどりけり』と吟じたる句を賞して、『生涯かろきほど、我が世間に似たれば感概不少候。』といへるは、亦小春の富裕にして雅趣を味ひ得ざるを戒めたるものと解すべく、その亭の有樣は、支考の東西夜話に、『庭のたゝずまゐも物なつかしく、あなたは一むら竹の其かげに、水鉢の水いと涼し。物數寄なほ茶にあらずば、何にかあらん。』と記したるが如き整然たるものなりしなり。元文五年二月四日歿、享年七十四。 從吾は金澤の人、名は白尾屋傳右衞門。支考及び北枝と風交最も深厚なり。享保八年に刊行したる白陀羅尼は支考の著なるも、表面上從吾の選とせられたること、獅子物狂に蓮二房の名を以て支考の作れる文に、『從吾は白陀羅尼をえらみて、越に一場の選者とはなれる。』といへるが如し、從吾三月六日を以て歿す。その年は享保の初頃なるべし。支考乃ち之を悼みて、『藤に名の殘るや花の白陀羅尼』といひ、而して北枝が棺を叩きて痛哭せりとの譚は、俳諧世説の傳ふる所なり。從吾『枯れたはと思うたにさて梅の花』『まつむしや竹の格子の高鼾』等の吟あり。 李東は石川郡淵上村に住せる十村役にして、近藤氏を稱し、名を源五郎といへり。李東農を業とするに拘らず、俳諧・蹴鞠等を翫びしを以て、終に藩吏の惡む所となり、その職を褫はる。時に李東吟じて曰く、『崩れてもあとが花なり蕗の薹』と。北枝及び秋の坊と親交ありき。