楚常は石川郡鶴來の産なり。金子氏、名は吟市。元祿元年七月二日歿、享年二十六。楚常の歿せし時一句集を遺しゝかば、句空・北枝二人之に増補し、元祿四年公刊せり。卯辰集即ち是なり、その追悼の集は後人假に題して楚常手向草と稱す。楚常の死に對して、北枝は『來る秋を好けるものを袖の露』といひ、牧童は『月薄もし魂あらば此あたり』といひ、一笑は『うそらしやまだこの頃の魂祭り』といへり。楚常『川端にあたま剃りあふ涼みかな』『住めば住む名もなき町よ秋のくれ』等の句あり。 如柳は舘屋氏、名は權兵衞・長右衞門、所居を松裏庵といふ。金澤春日町に住して酒造を業とす。一時北枝如柳の隣家に住し、常に來りて酒を乞へりとの逸話は俳諧世説に載せらる。正徳元年十月十七日歿し、山上町善導寺に葬る。『日のうちに海段々の時雨かな』『いつの間に背戸の木槿は咲きぬらん』等の吟あり。 厚爲は大聖寺の士にして、河地氏、名を才右衞門といふ。一號彌子。本朝文選に彼を評して蕉門之英士也といひ、その俳文讀佛骨表を載す。支考の東西夜話に、江沼郡橘驛の茶店に、『芭蕉門下の行脚人ならば、此宿のあるじに案内させて厚爲亭に來れ。』と張紙したりといへるもの、以て彼が如何に斯道の風交に熱心なりしかを察すべし。寶永二年二月二十一日歿す。徳安樹嶠居士と諡し、全昌寺に葬る。北枝之を悼みて、『はつきりとなき人かなし青葉山』といへり。厚爲『一雨の柳は醫者の羽織かな』『菜の花も咲けばいそがし大工小屋』等の吟あり。 巴水は加賀の人なり。元祿六年薦獅子集を撰す。路通が本書の跋に、『住吉奉納薦獅子集一卷、願主藤井氏某。』といへるは、即ち巴水のことなるべし。その句北の山・喪の名殘・卯辰集に散見し、『立てかへる卒都婆も秋の道具かな』『ふしづけの柴の甘味や魚の味』などいへり。