是より先大津の乙州が夙く北陸の俳士と交渉ありしこと、之を貞享四年尚白の著したる孤松集に徴して推察すべし。元祿二年芭蕉の來杖せしとき、乙州亦偶金澤に在りて松玄庵の雅會に列し、翌三年七月十七日芭蕉が牧童に與へたる書に、『大火の跡いまだ萬々心も靜なるまじく被存候。されども頃日乙州參り候而、又々會なども少々御座候由。』といひ、四年正月三日附にて北枝に遣はしたる消息にも、『乙州上津の節御細翰忝存候。』とあれば、三年にも四年にも乙州の金澤に在りたることを知るべし。元祿六年の猿丸宮集に、芭蕉が乙州の首途を送りたる、『行くもまた末たのもしや青みかん』の句を載するも、亦略この頃のことゝ見るべきなり。葢し青蜜柑の句は、芭蕉の句集皆之を脱漏するものにして、因りて猿丸宮集の價値を大ならしむると共に、乙州がその編輯に密接の關係ありたるを明らかにするものなり。芭蕉の歿後、元祿七年には路通下りて加賀・能登に入り、八年にも亦乙州の加賀に下りしことは、艸庵集に『翁の一周忌は加州に在りて、心まゝならず、かず〱の恩を思ひて、ひとつ〲かぞへもならず玉あられ、大津乙州』とあるによりて知らる。次いで十年の惟然來り、正秀も亦同じ頃に下る。 北陸に入りし俳人中、その勢力扶植に成功したること芭蕉に次ぐものを、美濃の支考となす。白陀羅尼は元祿甲申(寶永元)二月の序文を有するも、内容は元祿十六年の句集なりと思はるゝが、その中に東花坊が留別の句の前書として、『我三とせ越路に行かへりて』といへば、彼が杖を北陸に曳けるは、元祿十四年を以て初とすべく、その年は即ち彼の東西夜話が成りし時にして、四月上旬洛を發し、大津に芭蕉の墓を弔ひ、彦根に許六を訪ひ、加賀に入りて山中・大聖寺・金澤に巡遊するや、その能文と能辯とは、直に桃妖・厚爲・句空・北枝・牧童・萬子・小春・秋之坊等を、悉く藥籠中のものたらしめしが如し。さればそこの花の序文に、萬子元祿辛巳五月十七日長緒の野亭に遊びしに、支考が越中の浪化と共に來り會せることを言ひて、『古翁そのかみ北陸行脚も、十とせあまり二とせの春秋をかへたり。支考古き笈を憺うて、其道の一筋をまよはず。』と記したるは、芭蕉の歿後星霜稍久しく、薫化漸く薄からんとせし際、地方俳士が支考の鼓吹によりて實に蘇活の感ありしをいふものにして、萬子の如き蕉門の長老すら支考を歡迎することの甚だしかりしを見るべし。この行、支考の小松に杖を留めざりしことは、その地の俳人等が遺憾に堪へざる所なりき。是を以て十六年十月支考の重ねて金澤に在りしとき、宇中は小松より來りて之を拉し、終に一集を撰じ、名づけて夜話狂ひといへり。宇中は和田氏、藥種を業とし、その居を不五舍・寂保齋又は櫻烏仙といひしが、是より後東花坊に倣ひて北花坊とも號す。北枝の文に、『秤をとる時は治平といひ、筆をとる時は北花坊と申す。その文章の慮外どもは、役の行者の高木履にめんじて、關の人々もゆるし給へや。頭巾すゞかけの俄山ぶしに齋料々々。頭巾とればよき商人や山櫻』といへるもの即ち是なり。寶永元年師走十六日の火災に、宇中その家を失ひて、自ら回祿記を作りしことは、翌年同地の人青雲齋湫喧の著したるしるしのさほに見え、三年には宇中また百がらすを編めり。