元祿十六年牧童・支考合著の草刈笛亦刊行せらる。この書實は支考の撰集にして、牧童は單にその名を貸せるに過ぎざらんも、牧童の名に因みて外題を草刈笛としたるのみならず、卷頭に牧童傳を掲げて、その脱俗飄逸を賞讃し、以て蕉門の老骨を飜弄せる支考獨得の手腕を見るべきなり。翌寶永元年、支考又加越に遊び、從吾を輔けて白陀羅尼を撰ぜしめ、又金澤養智院の僧素然と共に御靈夢俳諧を興行せり。後者は、前住隆元阿闍梨能登より地藏尊の像を得て奉祀せしに、一夜隆元の夢に地藏尊が吟じたりといふ、『居よいかな亭主次第の冬の客』の句を立句として歌仙を賡ぎしものにして、支考・素然の外、枝東・雨青・從吾・秋之坊・北枝等之に加はれり。素然名は元徹、その所居を烏水亭と號す。『涼しさや柳に蜘の假世帶』『白山の雪も兀てや瓜茄子』等の句あり。 寶永三年支考の加賀に入りしことは、家見舞によりて之を知られ、四年には又越後・越中に遊ぶ。越の名殘はこの行の句集にして、その序文は萬子によりて記され、『戊子のとし、東花坊越中・越後にあそぶ。そのあそびを四卷になして越の餘波と名づく。』とあるにより、世に寶永五年の旅行となせども、こゝに戊子と記されたるは、支考が歸洛の五年初頭に亙りたる故なるべし。何となれば支考は、旅中七月十七日より直江津にありて痢を疾み、報を得たる萬子は八月九日書を認めて飛脚に託したるが、十二日直江津に達したるなりき。支考癒えたる後九月には高田に進み、十月井波に來りて浪化の墓に詣でたり。葢し五年八月に支考の洛に在りしこと次に言ふが如くなれば、越後に在りて病に臥したるは、必ずその前年に在らざるべからずして、歸路又加賀を經しこと言ふまでもあらず。 寶永五年宇中京に上り、仲秋雙林寺中閑阿彌亭に俳筵を張り、支考・涼莵・吾仲等を招き、而して支考は之が句評を試みたりき。乃ち宇中が小松俳人の那谷の花を詠じたる一卷に批評を加へたるものと共に之を刊し、題して東六鳳といふ。書中に夕市の自生山花見記あり。宇中・塵生・夕市の如きは、皆小松の俳界に麈尾を振ふものにして、宇中には『寒かろと案じて出れば月夜かな』『かすませておいて出立や四方の花』、塵生には『出揃うて中稻に月のすはりけり』『冱かへて春をはづんで梅の花』、夕市には『右近とも左近ともいへ雪の竹』『三日月や唐黍の葉にかゝる時』等の吟あり。後支考、越前の伯兎・昨嚢を拉し來りて山中温泉に澡浴し、金澤より北枝を招きて雅會を開かんとせしに、北枝は事に妨げられて赴く能はず。乃ち湯見舞の文を作りて之を贈りたりき。因りてその句集に題して山中三笑といへり。山中三笑の成れるもの、寶永六年にありしことは、之を菊十歌仙によりて知るべし。