かくて支考の名聲益籍甚たりしが、彼は正徳元年秋自ら終焉の記を作りて踪跡を晦まし、故老亦相繼ぎて凋零せしかば、加賀の俳壇稍寂蓼を感じたりしが、四年秋支考の再び來遊するに及びて活氣を復したりき。この時越前の伯兎・昨嚢等亦之と行を共にして山中に入り、小松の塵生・宇中・里冬・朴人・乙甫・之川・之仲等を招きて、菊月朔日より十日に至る間、毎日歌仙を興行し、その集を菊十歌仙といへり。書中に『伯兎かつて此山中にあそびて、はじめて蓮二房にもてなされ、桃亭に三笑の交をむすびしは、すでに五年の先なるべし。』といへるは、先に述べたる山中三笑の雅會を指すものにして、その桃亭といへるは桃妖の亭なり。同月支考北に遷りて小松に入りしに、河南の俳人乃露等之を留めて八夕暮を選し、同地の鳥一居彳人之が序を作る。書名はその百韻中に夕暮の語八つあるより採る。菊十歌仙と八夕暮とは、共に正徳五年に刊行せらる。享保三・四年の交支考又金澤に來りし如く、その六年に來りしことは獅子物狂の山隣の序に見え、八年にもその北下せしことは、雪岱の聞ばやに採録したる享保卯の年九月と奧書せる支考の文に、『ことし仲秋三五の夜は、金城に月を賞せしが、その夜その地の人々に留別の心を告るとて。後の字も老はたのまじけふの月』といひ、又『後の月見は、此山中に老をやしなふに、加越の人の又つどひて云々。』といへるによりて知るべし。此の年五月山隣と共著の獅子物狂成り、九月蘇守と共著の難陳二百韵も亦成る。當時金澤に於いて、城南の首魁たりしを河合氏山隣とし、城北の棟梁を賢聖坊の僧蘇守となす。支考山隣の『茸狩にその跡ゆかし金米糖』、蘇守の『雲に鳥弓手に瀧や櫻狩』を立句として、各百韵を賡がしめ、兩軍師難陳の辭を列ねたるもの、即ち先にいへる難陳二百韵なり。葢し支考の序によるに、蘇守は不易を宗とし、山隣は流行に遊ぶといふといへども、必ずしもしかく截然たるものあるにあらず。然るに故らに二人が主張の全然相反したる如くに論じたるは、支考が著作上の趣向たるに外ならざるなり。但し金澤の俳人が、淺野川連中・犀川連中及び安江連中に分かれて互に割據したりしことは、之を享保十年なる支考の三千化によりても亦窺ふを得べし。十二年支考和漢文藻を著す。この書亦金澤に於いて編せられしものなること、麥水の山中夜話に、『風曲亭は加州金澤安江町、則和漢文藻の撰場なり。』といへるによりて知らる。而して支考の遠逝は、これより僅かに四年の後に在り。