支考と時を同じくして、元祿十六年伊勢の涼莵杖を金澤に曳くや、萬子・北枝・牧童・里臼・從吾・長緒・八紫等皆之と交り、同國の乙由も來り會せり。既にして涼菟は乙由と相携へて山中に赴き、厚爲・桃妖等と賡和し、北枝亦追うて至れり。時に支考は能登より越中に入り、浪化を訪ふ。是を以て支考は涼菟と相遭はず、而して涼菟は浪化の遷化に先だちて之を見ること能はざりき。涼菟の寶永元年に出せる山中集はこの時の行脚記にして、行脚戻はその歸郷後の集なり。寶永三年美濃の人萬華坊魯九、初めて北國に下り、次いで春の鹿を刊行す。この書俳家の俗名を記するの點に於いて、最も價値を認むべし。正徳四年涼菟また曾北を件ひて加賀に來る。小松河北の連衆之を留め、安宅の懷舊に辨慶以下十二人及び富樫左衞門を題として各一句を捻り、別に五月雨の句を立句として七歌仙を次ぎ、その集を七さみだれと名づく。撰者は里冬にして、序文は宇中之を作る。先にいへる河南の連衆が八夕暮集を刊したるは、之に對する反抗運動にして、その河南・河北といへるは九龍橋を境界としたる地方的競爭たりしなり。涼菟はそれより金澤に入り、蘇守・玄扇等と風交せり。翌五年伊勢の人八菊北國に行脚し、小松の薄帋また之が爲に此格集を撰びたりき。次いで享保六年名古屋の露川は、門下燕説を伴ひて北國に遊びしが、その加賀に入りしは五月にして、山中・小松・本吉・金澤に滯杖せり。露川の金澤に在りし時、支考は已にこの道を經て越中石動に在り。露川乃ち支考の書を送れるに應へて、『相共に年寄る聲や松の蝉』といひ、七月初旬を以て亦越中に入る。後越後の卷耳、露川の爲にその紀行を刊し、題して北國曲といへり。十一年萬華坊魯九再び加賀に入りて大聖寺・山中・小松・本吉・松任・金澤に風交し、能登の今濱・七尾を經て越中に入る。その紀行は即ち雪の白河集なり。十二年美濃の盧元坊里紅三越に行脚し、大聖寺の馬泉・閑芝等、小松の塵生・乃露等、松任の千代、金澤の山隣・蘇守、能登七尾の司鱸・有己等と交る。その紀行を桃の首途といふ。司鱸は岩城氏、その俳文百物語の序は和漢文藻に採録せらる。麥浪も亦延享三年を以て來遊す。而して志摩の樗良の來りしは遙かに遲く、安永七年越後・越中を經て、十一月當國小松に入り、自生山の雪を賞したること俄庵凡夫が雪の聲集に見えたり。