是等外來詞宗の中、我が俳界拓殖の功の最も偉大なるものは、先づ指を支考と乙由とに屈すべく、芭蕉の薫陶によりて養成せられたる元祿俳人の凋落したりし後、北陸の斯界に煌々の光輝を發揮したる暮柳舍希因も、素園千代尼も、樗庵麥水も、皆初は教を支考に受け、後に乙由に轉じたるなり。美濃・伊勢兩派の俳風が一時盛に行はれたりしもの、實に之に因る。 希因は大越氏又は小寺氏、通稱綿屋彦右衞門、初號を紀因・幾因又は申石子といひ、所居は暮柳舍と稱す。初め俳諧を北枝に學び、次いで支考に從ひ、更に轉じて乙由門下の高足となる。而もその才識の非凡なる、徒らに美濃・伊勢の格調に雷同するを欲せすして、直に蕉風の核心を把握したるは、後闌更の著せる破れ笠に、『先師暮柳は見龍・麥林の門に有りながら、風雅は古今に獨歩せり。』といふにて知るべし。されば乙由も深く希因の俳才に信頼したりしは、涼帒の南北新話に乙由のことを述べて、『かんこ鳥我もさびしいか飛で行、とは案候へども、聞得る人すくなく候。さりながら曇舟は受合申候。貴境の御評承りたしなど希因へ文通ありし時、因この句をよろこぶ事命のごとくす。かさねて麥林の文通に、貴丈御請合此上は安堵致し候など聞え侍る。』とあるによりても明らかなり。希因寛延三年七月十一日を以て歿す、年五十一、釋祐律と諡せらる。希因の發句集を暮柳集といふ。明和三年男後川の撰する所なり。その追悼集に石の聲あり、又ことばの露あり。前者は寶暦元年陰曹散人大阜の撰ずる所。後者は天明三年三十三回忌の爲に後川の著したる所にして六年に刊行せらる。又伊勢の梅露曾て加賀に遊ぶ。希因之を迎へ、『くれなゐの山をさますや初しぐれ』を立句として百韵を興行し、板行の志ありしが遂に果さゞりき。如本遺命を奉じ、寶暦十二年之を刊して北のしぐれといへり。希因の俳風は、『靜かさに夜を覗けば柳かな』『分け入れば人の背戸なり山櫻』といへるが如し。その門下より出でたる俳士最も多く、洛に馬明・大路あり。東都に五竹・涼帒あり。越中に康工・其汀あり。越前に松因・蕉雨あり。而して加賀に在りては闌更・麥水・如本・芦洲・江夫・可枝・倚之等擧げて數ふべからず。寶暦二年菅公薨後八百五十年に會す。金澤の俳士歌仙の連俳を田井天滿宮に上り、又二十五所の天滿宮に參拜して各句を詠じ、之を集めて北の梅を刊行せり。その主催者たりし幾鶴・布青・一巴・素明・楚雀は、如何なる人なるかを明らかにせずといへども、亦恐らくは暮柳舍の徒なるべし。