千代はその婦人たるが故に、實力以上に高名となりし點なしとせず。之に反して世人の評價以上に手腕を有したるは樗庵麥水なり。麥水は堀氏、金澤竪町の産、藏宿業池田屋長左衞門の次男なり。字は子傾。初號可遊、別號操叟・吐仙又牛口山人・五噫逸人。通稱池田平三郎、後長左衞門。麥水の職業に就いては、その實子たりし加賀藩の能大夫諸橋權進俳號雨檜の由緒に、『實者御醫師堀樗庵忰』と記すれども、麥水が藩の御醫師たる待遇を得たるは、元と南京將棊と稱する遊戲に長じたるより、藩侯前田重教に之を傳へんが爲接近するの要ありたるによるといへり。麥水の風貌に關しては、坂井一調の根無艸に、『其の爲人は怜悧にして、即興の文章頓作の夜話、雜談言語の頓智、實に秋の夜の長きも、貴賤高位の雜居といへども、樗庵來臨すれば眠る事なく、犬打童部も麥水々々とて、其人躰鼻の先赤く、横たはりたる惣髮なれば知らざるものなし。』といへり。麥水弱冠にして京攝の間に在りしが、元文五年阿兄歿したるを以て金澤に歸り、甥の後見となりて茶器等を鬻げり。當時麥水俳諧を五五及び希因に學び、又能く支考の著書を讀破せしが、虚實の論茫漠として捕捉すべからざるを慊らずとし、乃ち伊勢派の風調を慕ひてその地に赴き、乙由の教を曾道に聞き、涼菟の傳を秋至坊に受け、乙由の子麥浪より麥水の號を受けて歸る。延享三年麥浪の金澤に遊ぶや又麥水の四樂庵に寓す。麥水寶暦十一年四樂庵を甥に讓りて小松に移り、庭前植うるに樗を以てす。是に於いて所居を樗庵と名づく。十三年秋麥水京に遊び、鶉だちを出版す。自作の句集葛箒も亦この頃のものにして、金澤の俳人大浦青城が、嘉永三年屏風の下張より得たるもの今に傳はる。麥水が伊勢派の卑野平板なるを厭ひ、蕉風に復活せんと試みたるはこの後のことにして、明和七年には俳諧蒙求を著し、俳味の何たるかを童蒙に教へんと企て、同年又貞享正風句解傳書を出し、芭蕉の最盛時は、門下の俊英左右に侍したる貞享年間にありと主張し、虚栗・冬の日・熱田の卷を引きてその理由を鼓吹せり。虚栗は、天和三年其角の著したる所なるが故に、嚴密に論ずれば貞享とはいふべからざるも、彼は誤りて貞享元年の編輯なりとせしか、若しくは大まかに貞享中に加へたりしが如し。葢し麥水の高調する所は、姿髓の偏重を排して情感を主とするにあるが故に、弖爾波又は字數の如きは深く穿鑿するを要せず。其角が『我句人不知我を鳴くものは子規』といへる如き氣凱、芭蕉が『花にうき世我が酒白く食黒し』といへる如き高致、同じく芭蕉が『貧山の釜霜に啼聲寒し』といへる如き悲悽の句を愛すべしといふにあり。 堀麥水自書本山中夜話金澤市石黒傳六氏藏 堀麥水自書本山中夜話