麥水の俳諧を尊重する意氣極めて旺盛、曾て長崎出島に遊べる日、『いざ給へ豚名月と興ずべき』といへる即興の句を紅毛人に示し、彼等をして俳味の何たるかを解せしめんと試むるに至れるもの、その事蹟甚だ珍とすべく、之が顛末は安永元年に著せる山中夜話に出せり。曰く、『其折は明和八年七月十五日なりし。幸に大通詞[楢林重右衞門吉雄幸左衞門]に隨つて紅毛舘へ入る。頃しも薩摩大主長崎に遊覽ありて、紅毛舘に入り來り給はんの期近きにより、是が爲に大通詞・小通詞・紅毛の船頭カビタン打寄りて内談す。爰に於いて日暮る。紅毛舘出島やしきの令、申の刻を過ぎて男子は悉く廓外へ出す禁令といへども、此日は格別の要用を以て、夜二更に各門を出る故に、我曹其日は徒らに出島屋敷カビタン部屋に相待つ事數刻也。紅毛の第三官[ヘトルと云]アルメナヲルトと云者あり。此間(ヒマ)に乘じて卓子(シツボク)の小集を催し、小通詞楢林長次郎と云を招く。長次郎予と好(ヨシ)。故に予に讓つて曰、我が此舘の卓子珍しからず。子は北陸の人、かゝる期の又有べからず。子幸に我に代つて榻に登れ。我辭しては又得難きを知つて、千謝して席に望む。長次郎此事をアルメナヲルトに通ず。アルメナヲルト則榻を下つて、我兩手を取つて榻上に進む。詞不通といへども、只珍ら敷不測(フシギ)の事也といふ顏色の如し。既にして杯椀前に並ぶ。此時十五日の月出で白日の如し。況や此邸高き事三丈、又四尺の榻の上に座す。故に長崎の入海を目下に見晴して、月光萬丈の銀蛇を躍らすが如し。酒三酌に至つて、豚を湯臑(トウシヨ(ニル))して前に進む。我朝の見ざる所の興也。爰に於て我漫りに筆を取つて彼の句を書す。時を失はん事を恐れて、句の可否を思惟するには渡らず。纔かに豚の字を蠻書して其興に抵つ。故にアルメナヲルト是を不審して肴を指す。通詞則ち再び書して、空の滿月を指さして、其趣意をあら〱と告。爰に於て我不知萬里の彼方へ蕉風の俗談平話を正す詞、おぼろげにも通じけり。』と。かくして麥水は、遂に彼の俗談平話を紅毛人に強賣したりしなり。その豚と月との字を蠻書したりといふは、通詞楢林長次郎が爲しゝことなるも、麥水亦後に之を模書して山中夜話に載せたるを見る。