麥水の貞享調提唱に對しては、固より譏譽褒貶交々起りたりしが、就中白尾坊といふもの、かざりなしを著して之を攻撃したりしに、麥水は山中夜話に『白尾坊蕉門の吟を探さば此詞有べからず。只小きわが師東都の鳥醉一人を本尊として、是に胸ふさがりて外を不尋故に、貞享・元祿とて二人の芭蕉あらんやとの愚説に及ぶ也。』と辨じ、更に安永二年大坂に上りたる際、蕉門一夜口授を出してこれを反駁せり。白尾坊とは加舍白雄の別號なり。然るに天下漸く麥水の主張に共鳴するものを生ぜしかば、彼は六年新虚栗集を編して益旗幟を鮮明にし、その序に、『飜手成作覆手愚。紛々俳書何須數。君不見蕉門七部集。棄盡糟粕有虚栗。』と咆哮せり。麥水の抱負之によりて見るべく、彼は蕉風の七部集を虚栗・冬の日・春の日・曠野・猿蓑・瓢・炭俵ならざるべからずとし、虚栗を採らずして續猿蓑を加ふるは、美濃派の主張に外ならずと言へり。 麥水の俳風を慕ひたるものゝ一人に二柳勝見充茂あり。一に桃居又は三四坊といひ、所居を七杉堂又は不二庵と稱す。加賀の人にして桃妖及び希因に學び、後八幡・京・大坂に住し、享和三年二月二十八日八十一歳を以て歿す。二柳屢麥水と相唱和し、『山河三とせ霜葉玉を埋みぬる二柳。胡馬冬忘る風の陽(ミンナミ)麥水。あさきらく弓取世にや無きならむ水。人不住なりて家いくそばく柳。槐枝(エンジユ)たれて夜々月を雨らす柳。秋鹿の記を半にし捨つ水』といへる如きその風調を見るべし。凡そ俳句に於いて、字數の約束を無視し、漢語・雅語・外來語を混用する手段は、律調の低下して救ふべからざるに至りし際必ず勃興する運動なるも、麥水が天明俳諧中興の先驅者となりし功績は特に之を推稱すべく、而して彼の能く指をこゝに染め得たるは、漢詩の素養ありたるに因るなり。麥水の詩は燕臺風雅に客中と題して『二毛秋忽逼。客舍感居諸。桐墜窻前雨。雁傳枕上書。已懷呉興菜。寧厭武昌魚。昨夜聞江笛。關山月落初』の五律を載せ、寛延二年の行脚記中亦玉笥山・士峰・湖上作等の數首ありて、その名を屈長と署するを見る。屈は堀字を省けるなり。麥水天明三年十月十四日金澤に歿す、年六十六。實言院道雪と諡し、大乘寺山麓に葬り、碑を立てゝ遠山墳といひ、『麥なら茶いづれかさきの霜ならん』の句を刻す。追悼の句集は、天明八年高弟八水之を編し、寛政元年刊行せらる。題して新亭(アラヤ)といふは、麥水が死後その机上に、『旅人と我を詠れん初しぐれ』といへる芭蕉の吟と並べて、『出迎うてもつけの新亭(アラヤ)初しぐれ麥水』と記したる紙片ありしによる。八水は大聖寺の人、所居を垂菊洞といひ、寛政二年還暦に會して三樂宴を編めり。二年同門其叟亦麥水の追善を營み、その句集を落葉搔くと名づく。上記希因・千代・麥水の遠逝せしは、その間三十餘年に亙る。而して略この期に活躍せし俳人を掲ぐれば左の如し。