大睡、本姓岸氏、屋號は北潟屋、名は徳右衞門・彌左衞門・前號は帆吹・半睡、又雪花堂・雪中花・九々翁・三葉庵・山歩人ともいふ。石川郡本吉の産にして、その師承を明らかにせずといへども、恐らくは支考の感化を受けたる人なるべし。享保十二年四十四歳にして剃髮し、金澤の郊外桃雲寺萬元に參禪し、後諸國に行脚す。大睡延享元年の還暦に、近邑遠境より得たる賀章を集めて俳諧のきれを著し、寶暦十三年八十歳の時には硯洗集を出して、自賀に『八十をつみてや餠の鏡山』といへり。安永四年歿する時齡九十二。 如本は金澤の人、家を舘屋といひ、名を權兵衞と稱す。金澤の人にして、如柳の養嗣子なり。俳諧を希因に學び、その所居は父に繼ぎて松裏庵といへり。明和八年十一月歿す。『寢にいそぐ鳥もしらでや啼雲雀』『船玉の神酒あたゝめて千鳥かな』等の吟あり。 見風は河合氏、名は理右衞門、河北郡津幡の人にして、後草庵を金澤並木町に結ぶ。俳諧を希因に學び、枝紅・枝鴿・雪鬼窟・花中仙・南物籬・白達摩・雪燈下等の數號あり。見風足一たびも國外に出でずといへども、その風交する所最も廣く、杖をこの國に曳くもの亦必ず之を訪はざるはなかりき。見風の文臺を霞形といふ。初め北枝の用ひし所にして、芭蕉の畫讃を有したるが、元祿三年の災に半ば面を燒けり。北枝乃ち焦痕を蘇守等に磨かせて鎭火形と名づけ、その顛末を芭蕉に報じたるに、芭蕉は鎭火形の名の雅趣あらざるを厭ひて、霞形と改めしめき。北枝末期に及びて之を李東に讓る。李東因りて添書を請ひしに、北枝は病床に臂を支へて沈吟數刻、『書いて見たり消したり果は芥子の花』と詠じたりといふ。後見風之を李東より得、爲に句集を選びて霞がたと稱す。天明三年四月一日見風歿す、享年七十三。河北郡中條村本福寺に葬る。後三年その次子風逸爲に追悼の句を選び、題して白達摩見風追善集といへり。見風終焉の状、亦風逸の筆に成る病中の記に詳かなり。辭世は『櫻の實何にもならぬ世なりけり』といへり。