閨秀作家には野角の妻紫仙あり。野角は越中高岡の人なるが、後に金澤に移り、淺野川連に加りて活躍せり。紫仙曾て千代と兩吟の連俳を試み、石川郡北安田行善寺の摩耶夫人に捧ぐ。小松の人兎路之を寫し、更に小松の須磨・春、金澤の蘭、その他全國婦人の句のみを集め、享保十一年刊行して姫の式と名づく。紫仙『ゆすれども柳に明けぬおぼろかな』『雨の日の傘につれだつ燕かな』等の吟あり。 珈涼あり。又草婦人の別號あり。家を坂尻屋といひ、金澤片町に住す。明和八年十一月二十五日歿す、享年七十六。『夕立や人にもくれず海の上』『秋の日のたらぬ名殘や草の花』等の吟世に顯る。珈涼の夫は五五と號し、通稱を八郎右衞門といふ。又俳諧を好み、所居を百雀齋と稱す。然れどもその手腕は妻よりも一籌を輸せり。 又すゑあり。父を相河屋武右衞門といひ、石川郡松任に住して酒造を業とす。すゑ俳諧を千代に學ぶ。世にその俳號を紫園なりとするものあれども、未だ實證を得ず。千代のすゑに宛てたる消息等には必ず實名を以てせらる。天明八年九月二十五日歿す、享年六十九。その句に『ほたる火や晝おそろしき橋の上』『近道はよいこと二つ清水哉』等あり。すゑ、叔父久兵衞を迎へて夫とす。久兵衞は俳號を桃洞舍之甫といひ、支考の門人なり。 この時に當りて能登には、二三の庸工俳道に親しむものありしといへども、その手腕一も擧ぐるに足るものなし。今濱の人盡夕庭見推の如きは、見風門下の高足とせられ、明和四年信甲相武に遊びて、歸郷の後東茂どりを上梓せしも、眞に梨棗に災せしに過ぎず。人をして轉た空山寂蓼の感を懷かしめたりしが、唯鏡花坊を出したることのみ、聊注意せざるべからず。