蒼虬は成田氏、通稱時二又は庄助、諱は利定。もと加賀藩士に出づ。初名李牧、俳諧を闌更に學び、所居を蔦の屋といひ、次いで槐庵又は二夜庵と稱す。後洛に入り八坂に住して對塔庵と稱し、寛政十二年闌更の歿後雙林寺の芭蕉堂に移り、南無庵を稱す。天保五年蒼虹、門人抱儀の爲めに招かれて江戸に下り、十三年三月十三日對塔庵に歿す、享年八十三。東山妙國寺に葬り、分骨を金澤妙國寺に瘞む。是に於いて梅室の主催により、追善句集を編みて夏蛙といひ、近江の芊丈は小祥忌と大祥忌とを營みて弘化元年折柳集を出し、梅通は安政元年十三回忌を修めて夕ばえを刊行し、明治二十四年金澤の蔦の家連は、五十回忌の爲に挿柳集を頒てり。蒼虬の家集には、初め對塔庵句集といふものありしが、その加賀に於けるもの多く脱漏せしを以て、大夢之を補ひて、嘉永五年蒼虬發句集を刊行せり。蒼虬の吟風は、『草の戸を左右にあけて花の春』『秋の夜のあはれにまけて寐たりけり』の類なり。 蒼虬の功績は、當時蕉風の俳諧大に衰へ、句意頗る卑近に陷りたるを憂へ、刻苦精勵之を挽回せんと努力したることにあり。されば梅通は『安永・天明の頃、洛および尾張・加賀に名哲競ひ起りて、專ら蕉門正風をとなへ、諸風士を導くといへども、世の人たゞ俗談平話を輕しめて、累年の弊風を改むることかたし。ゆゑにかの祖翁が開發の始に倣ひて、春の日・冬の日などの高調より導かんとせしかば、おの〱一世に本意を達すること能はず。ひとり虬翁長壽をたもち、而も名吟海内に響きて、發句の姿は青柳の小雨にたれたるが如く、附句は薄月夜に梅の薫れるが如く、祖翁の骨髓を得て、終に天保の始より虚を設け詞を飾るの弊風を改め、目前平話の正風をあらはし、諸師の本懷を達し申されける。』とその蒼虬傳に讃歎し、又梅室は『蒼虬をぢは、少壯より此道に深くわけいり、そのかみのがしこき人等が、よく見て吉とさだめ置るすぢを能く見わきて、水月鏡花に面壁すること、六十年只一日のごとし。』と蒼虬發句集の序に稱揚せり。しかも世の趨勢は滔々として水の低きに就くが如く、蒼虬自身亦獨この潮流以外に棹さすを得ざりしなり。