蒼虬と並び稱せらるゝ梅室は、姓を櫻井、通稱を次郎作、諱を能充といへり。明和六年金澤に生まれ、磨刀を以て藩に仕ふ。俳名は初め雪雄と號し、又素芯・素信と改め、所居を方圓齋・遞速庵・餘花園・寒松庵・相應軒・槐庵などといひ、又陸々山人の別號あり。初め馬來に學び、後に闌更を師とせり。文化元年病を以て職を辭し、出遊して西は薩隅を窮め、東は奧羽に達し、嘉永四年終に二條家より花之本宗匠の號を受け、翌五年十月朔日京師に歿す、享年八十四。本善寺に葬り、金澤慶覺寺に分骨す。梅室の句集には、文政十一年の梅室附合集、天保九年の梅室兩吟集、十年の梅室家集、十二年卓丈の編せる方圓俳諧集、十三年虚白の序せる方圓發句集、嘉永三年集雅堂兒遊の増補掌中梅室發句集、六年此花庵鶯宿の袖中類題方圓句集等あり。安政元年梅室の大祥忌に、尾張の人春松、梅室翁紀年録を著す。梅室の閲歴及び終焉の状皆見るべし。その吟に『日は西に梅ほろ〱とこぼれけり』『南無庵の老師を追悼して、日は五月三日なり。あやめふく日にさへなれば、泪かな』などゝいへり。 梅室の名聲漸く籍甚となるや、世或は白眼を以て之を迎ふるものあり。天保十一年八月梅室大坂に遊ぶ。その地の反古庵天來乃ち梅室の俳諧を難じ、翌年春俳諧七草を發行せり。七草とは人のひうつとの意なり。天來の言に、『この書はもと室を憎みて著したるものにあらず。年來わが教授の趣と、かれが行ふ所と異なるを訝り、門人の問ふに應じて答へ諭したるを、かく梓に彫らせることに成たり。』といへども、固より天來が貞門の流末を汲むの徒にして、梅室を壓倒せん爲に企てたりしものに外ならず。列擧する所の難問二百餘條、天來先づその草稿を梅室に示し、十餘條の回答を得、更に辯駁を加へて共に之を卷末に添へたりき。是に於いて梅室は門人九起の名により梅林茶談を出し、加陽の流行舍といふものは霽々志を刊行して、共に七草を攻撃し、次いで岡目蜂杢と號する匿名の人は、俳諧春之田⊥名治聾酒を出し、七草の所説の妄誕なるを論ずると同時に、梅林茶談・霽々志の反駁が頗る幼雅なるを嗤笑して、『此頃ある人七草問答を嘲りて、人の非をうつの山邊につむ雪はどちらを見てもつたなかりけり、と詠めるもをかし。』といへり。題號を春の田とせるは、打ちかへすの意なりといふ。是等の書の發刊せられたるは、皆天保十二年に在りて、世に之を七草事件と稱す。