俳人が前哲の庵號を繼承することは、蒼虬・梅室の頃より起りたる一種の流行にして、その基づく所は、古俳諧の花之本宗匠號が曉臺に因りて復興せられ、闌更の之を繼承したるに倣へるものゝ如し。即ち槐庵は馬來の初めて所居に名づけたる所にして、彼は寛政四年に歿したる人なるが、九年蒼虬の編したる白峰の春には、蒼虬既にその二世を繼ぎて槐庵蒼虬と記し、次いで闌更の歿したる翌々寛政十二年には、蒼虬その南無庵と、南無庵の別稱たる芭蕉堂とを承けたりき。又眉山は蒼虬よりも早く闌更の門に入れりと思はるゝ俳人なるが、北枝の系を享けて趙翠臺を繼ぎ、後に修して翠臺といへり。暮柳舍に至りては、初め希因の稱ふる所なりしが故に、その子後川の之を繼ぎたるは、如本が父の松裏庵を冐せる如く、元より繼席の例にあらざりしが、後川が寛政九年門人車大をして暮柳舍を襲がしめたる時には、夢のあとに記せるが如く、後繼者の義務として希因に對する追悼會の擧行をも托せるなり。幾曉の闌更門にして雲蝶の幾曉庵を受け、鹿古の同門にして馬來の園亭を冐し、松菊村井氏が同門にして牧童の圃辛亭を繼ぎ、李下和泉屋が馬來の柹丸舍と蒼虬の槐庵を受けたる、皆この類なり。 次に闌更・蒼虬・梅室三人と略時を同じくしたる俳家の小傳を擧ぐ。