既白は闌更と最も親交ありし人なり。寶暦九年の菰一重、十年の破れ笠、十一年の夕日烏は皆既白の著とせらるゝものにして、菰一重は、既白が松島・象潟に遊びし時、相會せし一人一章の句を集めたるものなるが故に、彼の著なること勿論なりといへども、破れ笠は吉野・龍田に至り、夕日烏は橋立・嚴島を見んとして鹿島立せし時、闌更等の之を送れる句集なるを以て、寧ろ闌更の著とすべきか、若しくは二人の合著とすべきものなり。既白は亦闌更と同じく希因門下より出でたる俳僧にして、別號を雲樵・雲水房といひ、所居を無外庵といへり。彼は通常加賀の人とせらるれども、菰一重に能登の如悠が、『既白法師は同國の産ながら、はじめて鳥海の麓にまみゆ。』といへば、元來能登の産なるが如し。既白の金澤に在るや、概ね闌更の狐貍窟に同棲し、二人にして一人、一人にして二人なるかの如き觀あり。されば破れ笠に載せたる見風の文に、『北海に化物あり。或日はおそろしく髮を亂しながら、半衣の半化〱とあやしまれ、或時は天窻を丸めて荊垣潜り得たるにぞ、長袖の破れ安きばせを翁の細道をつたひて、菰一重に背中の兀げし既白藏司とかや。市中に交つて市中になし、をかしみに顯れ淋しみに消して、飛行自在の風情にふける。其性を思ふにひとり成か、又ふたりなるをや。人と共に語りて行く所を見るに、卯辰山の麓、淺野川の流、とゞまる所は狐貍庵にかゞむ。同じ穴のいづれか狐、いづれか貍ならむ。』といへるは、文意甚だ難解なりといへども、要するに散髮にして半衣を著けたる醫師と、圓顱にして長袖の法師とが、居を共にしたる事實を述ぶるものにして、二人の相對座せる圖は夕日烏に出せり。既白の著に寶暦十四年の千代尼句集、明和八年その後集なるはいかい松の聲あることは前に言へる如く、明和二年には又蕉門昔語を著し、芭蕉在世の頃の挿話を記して、現代俳徒の趣味低下せるを警めたりき。而してこの年既白江戸に至り、蓼太の雪中庵を叩き、歸路洛に赴きて蝶夢の半閑室に留りたることも、亦その序に見えたり。既白が何れの年に終焉せしかは詳かならざるも、闌更の生涯を論ずるものは必ず既白の存在を無視すべからず。闌更の俳才亦既白の爲に琢磨せらるゝ所多かりしを想はずんばあらざるなり。既白の俳風は、『短夜や止まんとしては橋の音』『臘八や宵のあかりはまよひ物』といへるが如し。