闌更と前後して物故せるものに馬來・後川・玞トあり。馬來は上田氏、金澤の醫師にして名を養元といへり。俳諧を闌更に學び、所居を初め園亭といひ、次いで柹丸舍又は槐庵に改む。皆初世なり。寛政三年鵜の音を著し、四年七月十二日歿す、享年五十四、大乘寺に葬る。『黄鳥の見ゆる所に初音かな』『菜の花に寒き雨ふる越路かな』等の句あり。馬來が寶暦十三年同門の青野と共に選べる俳諧月あかりは、附句の秀逸なるものを拔萃し、添ふるに狐貍窟夜話を以てせり。狐貍窟夜話は闌更がその師希因より聞く所の俳論なり。既白月あかりの序を作る。 後川は家を綿屋と稱す。小寺氏、希因の男なり。名は市郎右衞門。所居を百鶴園といひ、又父の後を受けて暮柳含とも稱す。一時産を破りて河北郡森下に住せり。明和八年後川梅の草紙を著す。彼の所論によれば、和歌連俳の道は思ふ心を種として唯そのまゝに吟詠するに在り。然るに今時の俳諧多く用語の信屈と作意の巧妙とを欲するもの、是れ豈古翁の遺旨ならんや。去來が南窓一片春と題したる發句に、芭蕉・其角・嵐雪の賡和せる歌仙の如きは、特に採りて範とすべきなりと。乃ち之を卷頭に掲げ、以て一集を編せるもの、即ち梅の草紙にして、是また闌更と同じく、麥水の虚栗調に對する反抗運動たりしなり。寛政十二年十二月歿す。その遺吟及び追悼の句を集めたるものにとしのうちあり、『年の内の春にもあへぬ命かな』の辭世より取りて題したるものにして、享和二年車大の編する所なり。文化十二年後川の十七回忌に先だち、車大水莖塚を觀音山の醫王院に築き、希因・後川及び門葉の手跡を收め、碑陰に加賀蕉門の系統を鐫せり。この時又句集を撰びて道のともしといふ。後川の男北莖、百鶴園を襲ぎ、又鳥翠臺を稱す。俳人としての手腕を推稱するに足らずといへども、文化四年上梓せる北國巡杖記は間々世に行はる。