玞卜は能登の俳人中頭角を露したるものゝ一人なり。鳳至郡黒島の人、姓は森岡、名は又四郎。別に獅子窟又は三木とも稱す。俳諧を闌更に學び、闌更屢之を黒島に訪ひしことあり。天明六年力ずまふを著し、嵐雪の力ずまふの歌仙を卷頭に置く。又寛政四年ひぐらしぶえの撰あり。寛政十年十二月十七日齡七十にして歿す。その句に『涼しさや石に落ちつく水の音』『稻妻や乞食ふしたる草の原』等あり。その子玻井、三周忌に當りて追悼句集を編み、名づけて雪のあけぼのといへり。 この頃寺井の桑門に龍石といふ者あり。諱は兼圓、浮雲流水諸國を行脚し、伊勢國朝熊山の麓西行庵にあること六年。後同國楠部の里に移り住せしが、故郷終に忘じ難かりけん、寛政四年春錫を北國に飛ばせり。龍石乃ち己の感慨を叙して、『はたとせにしてふるさとに歸る。山のたゝずまひ、川のながれ、むかしにかはらざれども、おぼろ月夜にひとがほのわかたざるにひとしく、おさなきときのことゞもおもひつゞけゝる。めさむるや霞に北の海のおと』といへり。因りて自他の句を集めてふるさと集と題す。龍石同年またよつのときを著す。 又闌更と同時に竹之坊といふものあり。金澤の僧にして寛政二年ちから杖を著す。その中に曰く、『師説に、ある時、人ありて我に蕉門の俳諧の体を問はゞ、萬葉体正風と答へん。故いかんとなれば、萬葉は上古の風にして、かざりなくよみ出せるすがたなり。正風は作を好まず、やすらかによむ体なり。こゝをもて梅の牛次匀、あるひはみなし栗、あるは冬の日も、聊正風にあらざるに似たり。』と。この書闌更の序あれば、亦闌更の説を祖述したるなり。文章稚拙を免れずといへども、論客の稀なる俳界にありては、彼も亦一異才として見るべし。竹之坊の句には、『花の後稻はうつむく眺めかな』『菊咲くや田中の宮のおしまはし』等あり。その閲歴に就いては多く知るべからずといへども、天明四年竹の坊の著せる能登日記に淺野川の庵に住すとし、又ちから杖の闌更の序にはかぐはし白根の僧といひ、その齡を今八旬ともいへり。