世涼、館屋氏、如本の子にして名を權兵衞といへり。金澤春日町に住し、骨董を業とし、傍ら町會所の吏となる。その俳諧は後川に學び、初め所居を北庵といひしが、次いで百鶴園を繼承せり。文化五年三月九日歿す、年五十七。釋惠援と諡し、山上町善導寺に葬る。『戀猫の鳴きつかれたる丸寐かな』『夜寒さや味噌に覺ゆる鴨の味』等の句あり。 寒厓、井田氏、通稱一藏又は七右衞門、珠洲郡眞脇の人にして、甃泉・秋桂子・冥々・妙々庵とも號す。その俳諧の傳統は知るべからずといへども、多く行脚の間に自得せしが如し。その句集に寒厓發句集及び旅ぶくろあり。文化七年十月二十六日歿す、享年六十八。居村の新善光寺に葬る。その作は『夏の月家一ぱいの嵐かな』『朝顏の子供まかせも咲にけり』の類なり。 車大は後川の門より出づ。初め立几して所居を黄山舍といひしが、寛政九年後川より暮柳舍三世の繼席を許され、希因の五十回忌を豫修し、その追悼句集をゆめのあとといへり。車大又享和元年雨のはしを、文化二年まじりざきを、同五年生自物を、八年四時の月・四時の風を著す。雨のはしは各種雨の句を、まじりざきは花卉の句を、生自物は禽獸虫魚の句を、四季の月と四季の風は各種の月と風の句をのみ集む。『鳥の巣や迚も作らば花の塵』『一日の雨となり行く九月かな』の句あり。その姓氏忌辰等に關しては未だ詳を得ず。