眉山、中山氏、通稱大坂屋七右衞門。金澤の人にして俳諧を闌更に學び、北枝の趙翠臺を繼席せしが、後に翠臺・北枝堂ともいへり。又烏兎坊とも稱す。文化十年四月十五日歿し、法船寺に葬る。眉山の著には、寛政元年の肥後のもの及び家舟集、四年の草のあるじ、十一年の北枝會、文化四年の花の兄、八年の安宅集等あり。肥後のものは西國紀行にして、北枝會は北枝の追悼句集とし、安宅集は集中に載せたる北枝の文に、『安宅の浦の草臥折々おもひ出し候。』とあるに因る。眉山の作は『寐た朝は柳も伸びておぼえけり』『氷る夜の海長閑なりはしり雲』等の類なり。 岸芷は鳳至郡曾良の人なり。細木氏、通稱坂東、諱は宗久、所居を也足軒といふ。寛政三年去來文の著あり。こは去來の眞蹟を得て、之を卷頭に掲げたるが故に名づく。次いで享和三年立圃花めぐりを著す。また立圃が都の花を巡覽して得たる句を、堂上の貴紳に示したるにその賞讃を得たりとて、重頼にこの事を報ぜる文を載せたるより標題を取る。岸芷、文政十二年十一月二十六日歿す。その享年は詳かならずといへども、自書に八十六と記したるものあり。『這ふ時にあたまの知れるなまこ哉』『何鳥の聲もほのけき野梅かな』等の吟あり。 年緒、家號菅屋。名は半七、金澤安江町に住し、江戸三度を業とす。初め所居を繋舟居といひしが、後に幾曉庵三世を襲げり。天保九年草萠集を著し、弘化元年歿す。自筆に七十三歳のものあり。『煤掃てしすまし顏の振茶かな』『ひとり言ひとり語りて冬籠』等の吟あり。 年風、梅田氏、諱は九榮、畫を以て藩に仕へ、又俳諧を梅室に學び、翠臺を繼席し、後更に北枝堂と改め、薙髮の後菅阿彌といへり。文政七年其如月を著し、弘化三年九月十八日歿す。年五十六、三晴庵と諡し、常福寺に葬る。『虫なくやよく〱聞けば我が袂』『氷る戸に障りて行くや咳拂ひ』等の句あり。