大夢、直山氏、名は宗四郎。初め加賀藩の算用場に勤務し、後寺子屋を開きて教授す。俳諧は之を梅室に學び、槐庵及び南無庵を繼席せり。梅室その才を推奬して、『曾て槐庵創業已來連綿として六世に及べり。今に至て金城一家の道場たり。』といへり。安政元年四月大夢能登に遊び、外浦よりその突端を極め、内浦を經て還りしが、連續的に行路の風光を描き、間々俳句を挿みて、能登めぐり二卷とせり。葢し能登の圖會として珍重すべきものゝ一なり。明治七年二月十七日歿す、年八十一。『畫のやうな藁屋もありて梅の月』『音なしに水は流れて杜若』などの句あり。 鳳兮、春藤氏、通稱四平、所居を閑時庵と號す。珠洲郡小路の人、安藤叔明の弟なり。俳諧を蒼虬・梅室に學び、屢上國に遊びて諸家と交る。天保十四年九起、芭蕉百五十回忌に當りてその遠忌を營み、後花の供養二卷を著す。その序文は鳳兮の記する所なり。明治十年歿す、齡六十。『蓮の香や出ぬけてもまだくらき藪』『手まくらや窻に筋違ふ天の川』等の吟あり。 雪袋、後藤氏、通稱次兵衞。金澤の商家押野屋に生まれしも商事を喜ばず、遂に去りて屢京攝に行脚せり。初め遊平・由平ともいひ、後梅室の門に學びて悠平と號し、又雪袋と改め、所居を葵囿舍又は睦月庵と稱し、後句空庵を繼席す。明治十九年四月十日歿す、享年六十九。その著文久三年に聞ばやあり、又句空庵隨筆・續句空日記あり、並びに未だ板行せず。是より先、明治十六年雪袋は三日月三吟を出し、次いで卯辰四歌仙を刊す。又曾て梅室に請ひて、芭蕉のあか〱との句を染筆せしめ、碑を卯辰山に樹てたりしが、明治十七年之を兼六園に移し、句集を編みて秋風集と名づけたりき。雪袋『花の雲紫などもまじる朝』『三日月や美しと見るものゝ内』等の句あり。